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大人になるということ

先月誕生日を迎え、またひとつ歳を重ねた。

だからといって別に何も変わらず、今年もケーキを黙々と食べたぐらいである。


それにしても毎年思うのだが、いつまで経っても、何をやっても、大人というものになった気がしないのはなぜだろうか。

30半ばを過ぎても、いつまでも子どものような気持ちがぬけない。多分年齢と、この子どものような気持ちの差が、焦りを生んでいるのだと思う。


わたしは大人になりたい。
願わくば、素敵な大人になりたいが、せめて大人らしい大人になりたい。


…と思いつつ、現実は全然違っていて、この年齢になっても大変危うい敬語を使っているし、マナーやたしなみなどといったこともよくわからないし、よくリュックのチャックをあけてバタバタ走っているし、会議では汗をかきながらとんちんかんなことを口走るしと、まあ情けないったらありゃしないザマで、素敵な大人とは程遠い生活を送っている。


そもそも大人とはどういう存在だったか。

小学生の頃、大人とは逆らえない絶対的な存在だった。先生も両親もこわかったので、何も言えなかった。


中学生のころ、大人とは敵だった。時々、にくんでいた。小学生の頃とは違う、少しぐらいは立ち向かっていける年齢だと思っていた。


高校生のころ、大人とはお酒が飲める、タバコが吸える年齢になるだけのこと、それで威厳を保てる存在、と思っていた。にくむ、というよりいやな存在だった。


20歳直前は、大人とは嫌なことや損なこと、責任など、一気に全部ひとりで背負わなければならない存在だと思っていた。わたしはとてもよわかったので、強い存在になる自信がなかった。


色々書いたが、子どものわたしにとって大人とは、常に完璧で、強い存在でありつづけなければならないひと、だったように思う。


いつも「このままでは大人になれない」と思っていた。大人になれないということは、生きていけない、強くならなきゃ、立派になりたい、とかそんなことばかり思っていたように思う。


だから常によわい自分がきらいだった。いつまでもかわいいものが好きな自分がきらいで、よく言えばのんびりしているところも、誰かに頼らないと生きていけないところも、ひとりじゃなにもできないところも、何か必ずぬけてしまうところも、もう全部なにもかもきらいだった。


けれど、大人と呼ばれる年齢になって、ようやくそれは全く違うし、違ってていいんだ、ということを受け入れはじめている。

そして、少しずつわかってきた。

子どものころ、大人は強そうに見えていたけど、そう見えていただけで、誰もが仕方ないから頑張って大人をやっていただけなのだと。

本当は子どものころと変わらず、臆病な気持ちもずっと心のなかに抱え続けているのだと。

その臆病な気持ちを隠し、自分を守るために、咄嗟に手が出たり、心臓をえぐるようなひどいことを、時に言えたりするのだと。


大人とは、そして大人になるということは、決して強い存在でありつづけることではない。そして、強くありつづける「フリ」をすることでもないのだろうな、と思う。


 ☆


先ほどは成人になる年齢以前に考えていた「大人とは」について書いた。

では、成人してから(ー大人と呼ばれる年齢になって大分板についてしまった今ー)考える「大人」とは、どういう存在なんだろうか。

色々と考えたけれど、目の前のできごとであったり、感情を一回ちゃんと受け止めて「細分化」できる存在、のように思う。


どういうことなのかというと、赤ちゃんの頃はお腹が空いてもトイレに行きたくても、泣くことしか出来なかった。伝える手段が、「泣く」しかなかったからだ。泣くと、誰かがすっとんでお世話をしてくれる。赤ちゃんは「泣くこと」が仕事だ。


それが言葉をおぼえ、知恵を身につけ、自分の好きなことや、嫌いなことがはっきりしてくる。そうやって、だんだんわからなかったものを、自分のなかでわかるものにしていき、相手に伝える。それができるのが、大人という存在で、権利でもあるのではないだろうか。


「わかるは分ける」

好きな言葉の一つだけど、その通りだと思う。それは自由にもつながるし、見るしかことしかできなかった夢に、着実と歩みをすすめられる、大人の特権だ。

また、それが歳を重ねるということの、面白さでもないのだろうか。



周りにいる素敵な大人たちを見ていると、この特権を思う存分使って、楽しんでいるように思う。

わからないから、思い通りにならないからとじたばたするのではなく、誰かのせいにしたり罵ったり、悪く言ったりするのでもなく、わからないなりに一旦受け止め、「何が悪かったのか」「今後どうしたらいいのか」ということを、思慮している。

その姿は一見穏やかなようで淡々としていて、でも絶やさない火を心の中に灯していて、またそこがとても魅力的なのだ。


…ということを、もっともっと若いころに教えてほしかったー!というのか、気づきたかったー!!というのが、正直な本音である。

そしたらまた、違う人生もあったかもしれない。

誕生日に食べたケーキは、モンブランだった。

「なんか味も美味しくないし、見た目も地味」という理由で、子どものころケーキ屋さんで1番敬遠していたのがモンブランだった。だが、いつのまにか食べられるようになっていて、むしろ好きなケーキのひとつになっている。

大人になった気はしないけれど、こうやって今年も無事にモンブランを美味しく食べられるということは、とてもありがたいことなんだろうなあ、と思った。



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Q.あなたが考える大人とは、素敵な大人とは?

よろしければ、コメント欄にどうぞ。それ以外ももちろん。


追記 10/10
過去記事でこんなこと書いてました。すっかり忘れてた…。「同じようなこと書いてる」と思われた方すみません。でもまた違うこと書いていて、それはそれで面白いですね。






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