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例えば、ジャイアンとのび太のように

今日のテーマは、"文章の力"と"写真の力"。

先日のワークショップの中で、「文章では表現できない、写真の力」というフレーズを先生の口から幾度も耳にした。

言葉を尽くしても伝わらない事だとしても、目の前に提示されることによって一瞬にして理解を深めることができる。"見る"という行為にはそれだけ、言葉とは違う圧倒的な部分がある。
だからこそ、写真を選ぶ・見せる時には文章の力は必要ない。文章の補足なく、写真の力で魅せるものを選ぶべきだ。

正確ではないかもしれないけれど、こういった趣旨を語られていたように記憶している。

言われてみれば、その通りだと思える。
しかし自分は今までこの事について、深く考えた事がなかったような気がする。ということで、この話について少し自分なりに考えてみた。

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まず自分にとっては、言葉とは写真以上に魅力を感じるものだ。「1歳の頃から絵本に夢中だったんよ」と言われる程に小さな頃から文章に触れ始め、10代の間はひたすらにそれを愛しながら育ってきた。今だって毎日大量の活字を消費し続けているくらい、切っても切れない関係の相手。

とはいえ写真だって、幼い頃から当たり前のように目にしてきたもので。こどもの頃の祖父母の家でのお楽しみのひとつは、祖父が撮りためてくれた自分が赤ちゃんの頃からのアルバムを眺めることだった。長じて趣味となり今は仕事にまでなっているのだから、言葉ほどではないにしてもやはりこちらも思い入れはある。

文章も写真も自分にはどちらもごく身近な存在であって、それぞれの良さがあると感じている。そしてわざわざその両者に区切りをつける意味を、今の自分は感じていない。だから圧倒的に力を持つ部分だけに注目しようとは思わない。どちらも自分の表現のツールなのだから、臨機応変に使えばいい。

現在の自分にとっては、これが答のようだ。
写真家として生きている先生の結論と、写真家たり得ない自分とは出て来る結論が違うのも当然なのかもしれない。

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今回は写真のワークショップから始まった話だったので、写真の力に重点が置かれていたけれど。「文章と写真」、これはどちらが優れているというものではないのだから。使い手が使いたいように使えばいいのだと思う。

ある人にとっては文章が、ある人にとっては写真が、より力を持つように感じられるかもしれない。でもそれは、それぞれの特性が違うだけであって優劣の問題ではない。使う場面や好みの問題だ。

言葉を尽くすことでしか伝わらない思想や感情もあれば。逆にどれだけ言葉を尽くしても伝わらないものが、写真や映像や行動によりほんの一瞬で伝わることだってあるだろう。


ただ、自分がどちらに傾倒しているか…と言えば。結局は「言葉」の信奉者なんだろうな、と思う。写真の力を認めつつも、それでもなお言葉の方を重視している。

だからだろうか、写真も想いや意図を載せたキャプション付きの物がわりと好きだったりする。もちろん写真だけで完成する表現もあるけれど…単に面白みのない写真だな、と目が滑っていたものが。文章という、その人の思考や意図のフィルターを通すことによって。パッと別のものに見えてくる瞬間が好きだ。

自分の目では見えなかったものが、見えてくる。
一瞬にして思考が拓ける、あの感覚。思考の共有。

<立場の違い>  "飼い花" と "野良花"

ワークショップ後に飲みの席で話している時に、先生から「欲深いんだね」と別件で言われたのだけれど…たしかに、そうなのかもしれない。文章と写真のどちらか1つではなく、どちらも手にしていたいと思っている。

自分にとっては写真も言葉も。相容れない部分があっても場合によっては共に手を取り合える、仲間のようなものであって欲しいと感じている。

例えばほら、映画版のジャイアンとのび太のように。


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