同じであって、同じではいられない
写真を撮っていて、自分の中で流行を感じたことは無いだろうか?
世間での流行スタイルとは全く関係なく、「お!今は自分の中ではこれが流行ってるんだな」と撮りながら思うことがある。
ある時はふんわりハイキーに撮ることが、ある時は日の丸構図でも格好良く撮ることが、ある時は縦構図が…とその時々で内容は違うのだけれど。その時の気分にハマる何かに、ふと気づくことがある。
先日写真を撮っていた時に、ひさびさにその感覚に気がついた。どうやら今の自分は、構図の取り方に少し思うところがあるらしい。
初めて一眼レフのファインダーを覗いた時から、構図の感覚は当たり前のように自分の中に存在していた。「おさまりが良い」位置具合というものがあり、その感覚に従って撮っている。
しかし今の自分には、どうやらこれではしっくり来ないらしい。なんというか…決まりすぎていて逆に落ち着かない、少し崩したい。そういう感覚があることに、あれこれ撮っていると気がついたのだ。
例えば、これ。
普段は水平はきっちりとりたい方なのだ。撮影時にきちんととれていなければ現像時に修正するということも、よくある。それが、この斜めっぷり。
電車を入れ込むのでも、以前ならこちらの方がバランスが取れていて良し。と感じていたように思うのだけれど…
今は違うのだ。半端にチラッと入り込んだり、大胆に横切ったり…こちらの方が自分にとって"良い写真"だ。
「あ、自分の中に新しい流行がきているな」と思った。
きっちり構図を取ろうとすると、「しっくりしすぎてて、しっくりこない」という抗議が入るのだ。だけどおさまりが悪いものは、やっぱり気持ち悪い。というわけで、この春のテーマは「崩してはいるけれど、おさまりの良い写真」らしい。
バランスを欠いてはいるけれど、欠いてはいない…今は、どうやらそういう写真に惹かれているようだ。
noteを始めた頃に「好きなものに自覚的だね」という記事を書いたのだけれど、相変わらずそうなのかもしれない。写真を撮っている時というのは基本的に「自分が何を良いと感じているのか」に向き合っている時間だ。自己の感覚と対話しながら、"今の自分"を写真の中に落とし込んでいく。
つまり写真とは単なる目に映ったものの記録ではなく、自分の内面の記録でもあるのだ。いや写真に限らず、書くも作るも…人が産み出すものは全てそうなのかもしれない。
今日のわたし、明日のわたし、1年後のわたし。
同じであって同じではいられない、人はそういう生き物だ。だからこそ表現は、やめられない蜜の味なのだろう。日々移ろい、失われていくものこそ愛おしい。変化してしまう日々の中で、「過去の積み重なりから現れた今、この瞬間」を削り取って形として残していく。
noteという場所が好きなのは。そうした自分の他人の爪痕を眺めることができる…から、こそなのかもしれない。
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記憶の小径、愛の行方 みき けいこ 作品展 in Gallery1/1
2018/06/23-24 | 10:00-19:30(6/24 -17:00)
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広島で、大人から子供まで人物の出張撮影をしています。自然な情景を、その時間を…切り取って残したスナップ写真は、お客様だけでなく自分にとっても宝物。何かありましたら、ぜひどうぞ!
ユルリラム
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