徳川家康first居城:「岡崎城」は攻めやすい?【お城と地形&地質 其の二】
日本のお城について「地形・地質」的観点からアレコレ語る「お城と地形&地質」シリーズ。
実は私がnoteを始めた当初に書いたもので、「都道府県シリーズ」よりも前に1記事だけ書いていました。
懐かしい・・。
興味がありましたら、是非お読みください♬
ってことで数年越しの「其の二」は岡崎城です!
もちろんNHK大河ドラマ「どうする家康」に乗っかってます(笑)
岡崎城の歴史
日本の戦国時代のお城は、その時代の武将が建造したものもありますが、古くからある城を改修しているケースが多いようです。
と言っても、私たちが「城」と聞いて連想するような天守閣があるような城は、戦国時代でも後期の方で登場したようです。
ちなみに岡崎城の場合は、1450年代に西郷氏が建てたのが最初(名前は違う)で、「岡崎城」になったのは家康のおじいさんである松平清康の代になってからだそうです。
しかし!
なんと岡崎城が現在のようなかたちになったのは、豊臣秀吉の家臣:田中吉政によるものなのだとか!
とすると若き日の家康が治めていた頃の岡崎城は、昔ながらの「館」だったようです。
以上については、👇のサイトを参考にさせていただきました。
当時の岡崎城の攻略難易度は?
私の記憶が確かなら、大河ドラマでは岡崎城を巡る戦(いくさ)は無いですよね?
今川家臣が軍もろとも城から逃げて空になったおかげで、家康がスイ~っと入った感じですし(笑)
(※城に入る前の戦いは描かれましたが)
当時の岡崎城が天守閣タイプではないのであれば、その攻略難易度は「地形」にかかっていると言っても過言ではない?
早速、地形図を見てみましょう。
まずは場所の確認です。
上図の赤丸が岡崎城。
現在の地形図で見てみましょう。
渥美半島と知多半島の間にある平野は岡崎平野です。
この岡崎平野の北東の、やや標高が高くなっている場所に岡崎城があります(上図赤丸)。
拡大しました。
赤丸が岡崎城です。川に囲まれた場所にありますね。
ちなみに青丸は三河一向一揆の一揆勢の中心だった本證寺(ほんしょうじ)です。
さらに拡大。
西を流れている大きな川は矢作川(やはぎがわ)。
城の南が乙川(おとがわ)で、城のすぐ西の小さい河川は伊賀川(いががわ)です。
なおこの伊賀川、桜並木が有名なようです。
岡崎城は攻めやすい?
さらに拡大して見てみましょう。
岡崎城はちょうど、乙川と伊賀川の合流点に建設されてます。
ですので城の南と西から軍勢が攻めるのは、ちょっと厳しそう。
でも一方で、北から東にかけては平坦地が広がっているので、ここに敵軍が入ってしまうようだと、かなり危なくなるでしょう。
つまり岡崎城側から見たら「北~東に広がる平坦地に敵を侵入させない」が、守りの重要戦略の1つだったと考えられます。
もう1度引いて見てみます。
さらに東には広い山地もあるので、やはり攻め込むルートは限られます。
どの方向からでも、どこかで川を渡らねばならない。
だとすれば、河川幅の小さい上流域で、平坦地で、岡崎城からやや離れている場所が渡りやすそうです。
そう考えると上図赤矢印から侵入しやすそうに見えませんか?
逆に西からだと矢作川が南北方向にのびているので、大きな壁になっています。
つまり岡崎城は東からの方が攻めやすい城だと言えそうです。
こうして見ると、なぜ松平家(岡崎城主)が織田家ではなく、今川家に臣従することになったのか?が想像できます。
もちろん政治的な背景等もあるとは思いますが、逆に今川家から見れば「攻めやすい城」ですし、ちょっかい出したくなりますよね。
家康が割と早い段階で本拠地を変えたのは、こういう理由もあったのかも知れませんね。
以上、お読みいただき、ありがとうございました。
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