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「行き」の行軍ルートを考察:「金ヶ崎の退き口」を地形・地質的観点で見るpart1【合戦場の地形&地質vol.3-1】

戦国時代の中でも「金ヶ崎の退き口(のきくち)」は非常に有名です。
これは、織田信長率いる軍勢(≒幕府軍)が、越前(現在の福井県の中~北東部)の朝倉軍と北近江(滋賀県北部)の浅井軍の挟み撃ちに遭い、命からがらの撤退をした事件です。

織田信長絶対絶命のピンチ!
だけではなく、豊臣秀吉・徳川家康・明智光秀なども従軍しており、まさに「戦国オールスター」的な出来事でした。

どれほどの危機だったのか?

確かに「挟み撃ちに遭う」と聞かされれば「危なかったのだろうな」とは思うのですが、私はこれまで、具体的にどのくらいの危機だったのかピンと来ていませんでした。
NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、登場人物の言葉から「挟み撃ちに遭うので危険」とは聞かされますが、やはりピンと来ない。

そこで、実際の各軍の位置関係を地形図で見てみたら「ナルホド!」と、腑に落ちました。
その入り口として先日書いたのが、以下の記事です👇

このシリーズでは、これをさらに掘り下げて、地形・地質を詳しく見て行こうと思います!

「行き」のルートを考える

「退き口」と言うくらいですから、「行き」もありました。
ただこの時は、撤退の時と違うルートを通ったようです。

どういうことかと言いますと、「行き」と「帰り」では状況が違っていました。それは「北近江の浅井長政が敵になった」と言うこと。
「行き」では北近江を通過できても、「帰り」はそれができなかった。

いくつかのサイトで確認したところ、撤退時のルートに関する記述はありましたが、「行き」の行軍ルートに関する情報は見つけられなかったので、以下は全くの私の推測です。

👇参考サイト


「京都~若狭国」の地形

今回あらためて京都周辺の地形を見て「なるほど」と思いました。
私自身、東北の出身で東日本にしか住んでいないので、近畿地方の土地勘がありません。
ですので頭では分かっているつもりでも、いざ地形図を見ると「京都って琵琶湖に近いんだな」と驚きました。
地元の人たちからは「当たり前だよ」と言われそうですが(;^_^A

京都市と周辺の地形図:スーパー地形より抜粋

中央やや下の南北に細長い盆地が京都市です。
京都市の東に南北方向に連なる山地を介し、琵琶湖はすぐ隣にあります。

「金ヶ崎の退き口」のそもそもの発端は、幕府に叛意があるとみなされた若狭国(わかさのくに:現在の福井県の南西部)の武藤氏を討伐する名目での出兵でした。
そのため信長は「幕府軍」として出陣していますから、まず京都から若狭国へ向かって進軍したことになります。

京都と佐柿国吉城の位置:スーパー地形画像に筆者一部加筆

赤が京都御所、青が武藤氏の本拠地である佐柿国吉城(さがきくによし)です。京の都の北は山地が広がっており、まっすぐ北へ向かったとは考えにくいですよね。

おそらく東の山地を超え、琵琶湖の西岸沿いを行軍したと考えられます。
この時はまだ、浅井長政は裏切りを表明していないため、信長の味方です(浅井長政は信長の妹の婿)。

京都周辺の地形図を見よう

まずは現在の地形図です。

京都周辺地形図:スーパー地形より抜粋

左に見える四角が二条城。この北東に京都御所があります。
このあたりから東へ進んだと思われますが・・・

京都から琵琶湖へのルート:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地形を考慮すると、このルートがアップダウン少なく行軍しやすいでしょう。

京都御所付近の古地図:国立公文書館アーカイブより

当時の京の都の地図を見ると似たようなルートの街道がありました(上図赤矢印)。おそらく、この街道を通って出陣したと思われます。

ちなみに上の古地図を良く見ると「禁裏」の字が上下さかさまになってますよね。
実はコレ、理由があるんです!
それについては、次回の「日曜地質学」にて。

今回はここまで。
次回は京都~琵琶湖西岸ルートを見ていきましょう。

お読みいただき、ありがとうございました。

次回記事はコチラ👇

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