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玉ねぎも人も皮むけばピカピカ

多くの人は自分に弱みを持っている。

その弱みとは、人から嫌われるのが怖い。見放されるのが怖い。(私の場合)

大抵は、実は想像上の敵と戦っているだけなのである。

【玉ねぎの話】

玉ねぎは外側が泥だらけで汚いように見えても、皮をむいていくと、綺麗な白い可食部が現れる。

人間もこれと同じで、みんな有りもしない空想(人から嫌われるのが怖い→嫌われたくない→嫌われそうなことは言わないでおこう、人から見放されたくない→期待を裏切りたくない、力があるすごい奴と思われたい→強そうに見せなければ)などにとらわれて、弱い自分を守るために皮を重ねているのだ。

でも、そもそも人からの評価で自分を判断する必要なんて無いのだ。

人からの評価なんてものは本当のところは分からないし、分かる必要もない。自分がつくり出した幻想だから。

ここをもう少し理解しやすくするため、例を挙げたい。

【空】

空(くう)とは有ると無いを包摂する概念のことだが、今は深く考えず、読み進めてほしい。

私たちは日頃、歩きながら、家事をしながら、車を運転しながら、、知らず知らずのうちに空想にふけることが多い。

例えば定食屋さんが視界に入ったとして、そういえば今日の晩ご飯は何にしよう?今冷蔵庫に鶏肉があったな、あとじゃがいももあるな、そしたら~

っというように、現実では 「定食屋が視界に入った」だけであるのにも関わらず、そこからどんどん妄想が始まってしまうのだ。

目が目の機能のみを果たすとき、知性は要らない。目は定食屋を見ても、定食屋と認識しない。あくまでも認識するのは脳のはたらきなのだ。

他にも例を挙げると、「1+2は?」と訊ねられたらどう答えるか。

「3!」と答えたくなるかも知れない。

しかし、耳は「1+2は?」という音が聞こえただけである。これが真実で、その外には何も聞こえていないのだ。

耳は音を聞くという機能だけだし、足は歩くという機能のみである。

そう、頭の中での思考は全て妄想であり、現実に起こっていることではない。

人間は弱み(空)に囚われている

【弱みを守る】

守るということは既に戦争をしているのと同じ事である。

例えば、他国に戦争で侵略されても負けることのないように核兵器を持つとする。

すると、核兵器を持っているこの国は危険だから、(自分の身が危険にさらされないように)侵略してしまおう!とこうなるのだ。

家の鍵もそうだ。家に泥棒が入らないように(自分の資産を盗まれないように)と守るから、泥棒側としては「やや!守っているということは何か金目のものがあるに違いない」とみて盗みにくるのだ。

守るものが何もなければ取られるものも何もない。


【身と心が離れてしまう危険性】

いつも多くの人は身(物理的に存在)と心(バーチャルな情報空間に存在)が離れてしまっている。これが行き過ぎると人間は大切なものを守るためなどの正義感によって、平気で人を殺す、痛めつける戦争などが起こってくる。

戦争は我が身を守る、大切なものを守るための正義のぶつかり合いである。

みんなが守らなければ、こだわらなければ戦争は起きようがない。

身と心は離れてはならない。


【利益を独占しない】

元来、人間は魂を磨くためにこの地球に修行に来ているのだ。(詳しくは 飯田史彦著 生きがいの創造 など参照)

この自分の身でさえ天から与えられたもので、自分のものなんて本当は一つもない。

それなのに自分だけ利益を得よう、守ろうとして富みを独占している。

現代の資本主義では、元々は自然の恵みで共通の富だったものが、お金を出さないと手に入らなくなっている。商品でなかったものがどんどん商品(お金に替わる物)になっている。

これは資本主義というシステムの問題点というよりか、突き詰めると人間の精神性の問題なのかもしれない。人間の欲が、精神性の低下が起こりやすいシステムであるとは言えるかもしれないが。。

まとめると真の幸せになるには、

まず自分のこだわりをなくし、自分だけの利益を求めるのでなく、人様の幸せを心から願い、どんなご縁も有り難く受け止め、存分に人生を味わう姿勢で生きるとよろしいと思う。

考えたり、理解した気になるのは簡単だが、実際に得、常に実行するのは難しい。しかしこれまた修行。


人生は修行であり、観光旅行。


(素敵なお写真はタナットネイチャーlab様より拝借しました。)


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