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自己顕示欲をどう扱っていいかわからなくなったとき

誰かに認められたい。褒めてほしい。一芸に秀でたい。多かれ少なかれ誰もが抱くであろう、そんな欲たち。

たまに、自分の中のその感情そのものを、汚らわしいもののように感じてしまうことがある。

SNSを開けば、「フォロワーの増やし方」「マネタイズ」「おすすめピックアップへの選ばれ方」などなど、こってり鮮やかなタイトルの記事が手招きしている。

平常運転のときは「やっぱりそういうの需要あるんだろうね〜」と冷静にスルーしたり、ときにおもしろい読み物として読んでみたりする。そういう記事自体が悪いとは思わない。ときとしておもしろい示唆に巡り会えることもあるし、良質な記事もある。

だけどたまに、疲れているときにそういう記事に頻繁に出会うと、なんだかげんなりしてしまう。

画面の向こう側にいる相手のことを数や金額で捉えることへの嫌悪感や不気味ささえ、感じてしまうこともある。とはいえそもそも自分だって、誰にも読まれなくていいはずの文章を毎日毎日載せているし、読んでくれる人が増えれば喜んでいる。だれかの記事をとやかく言える立場じゃない。

漫画でよくあるような、ふたりの自分が頭の中で言い争いを始める。

「SNSやってる以上、潔癖ぶるなよ。どうせ人に認められたいんだろ」
「人に認められることだけが目的じゃない。自分の成長にもなるし」
「そんなこと言うくせ、スキの数気にしとるやろ!」

そんな終わりのない言い争いに、我ながらぐったりする。

・・・

学生時代も、似たような悩みを抱えていたときがあった。

はたして自分はなんのために学んでいるのか。結局は「頭がいい」と相手に思わせたいだけじゃないのか。なんで今自分はこんなレポートを書いてるのか、純粋な興味なんてもの、あるんだろうか。教授に認められたいだけじゃないのか。

そんな袋小路に入って心がどんづまってたときに偶然出会った本が、サリンジャー作の「フラニーとゾーイー」だった。

こむずかしそうなイメージがあって避けていたけれど、村上春樹の軽妙な訳に乗せられ、ぐいぐい読めた。

時代も場所も立場もぜんぜん違うけれど、主人公のフラニーの抱えている悩みには、近しい気持ちを抱いた。

まわりの人が抱えているエゴや自己アピールが苦手。だけど自分自身の中にも、そのエゴがあることを無視できない。いったいどうやって生きればいいのか。

明確な答えなんてものはこの世に存在しないけれど、読み終わったときにはすこしトンネルの向こうの光が見えたような気持ちになったのを覚えている。

疲れも溜まって気持ちもダウナーになりがちな夏の終わり。ひさしぶりに、もう一度読み返してみようと思う。



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