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ウエルベックと春樹を生きる人生の辛さ

ミシェル・ウエルベックの「セロトニン」を読んで、久し振りにこういう90年代的な感覚を思い出した。

主人公である中年独身男は、資本主義を上手く立ち回る経済的な成功者であり、抗鬱剤である「セロトニン」を服用して虚無感から逃れる。

ただし虚無感の解消と引き換えに、勃起能力を奪われる。

あくまで男性としてだけ生きる独身男にとって、それは矛盾をはらんでいて、結局勃起能力を奪われることで、新たな虚無感を生むことになる。

父として生きない男にとって、人間としての価値は性的な充足と社会的な充足ぐらいだろう。

その点主人公は社会的地位は満たされているが、それはあくまで経済的な成功であり、資本主義の奴隷となることでそれを得ているに過ぎなかった。

つまりそこに正義はなく、自分の成功は資本主義の精神的奴隷になることによってもたらされる不本意なものだ。

主人公が若ければその経済的な成功を手放しで喜べたろうが、自分にとって必要な豊かさを手に入れた後、その成功は無でないにしろ、大きな意味を持たなかっただろう。

成功の先にある、性的な肯定や社会的が肯定が小さなものであるから。

自分の真理に基づいて経済的成功を収め、父として未来を育て、男として充足した人生が理想とするなら、主人公の人生はまったく満たされたものだといえない。

ただ資本主義が中心にある社会では、主人公のような存在こそが、軽薄に羨まがれる人生であるように思われる。

一方で春樹的な人生は

春樹の作品は自分だけは特別という根拠のない自信と、現実的な真理がわかっている上で違う現実を生きている(生きざる終えない)自分の後ろめたさやそれが分かっている「僕」を全力で肯定してくれるものだと思う。

決して目立たない存在の自分が、人が羨むような特別な女性に好かれ、自分のことを語るまでもなく、自分を理解し肯定してくれ、性的な欲求まで満たしてくれる。

経済的な部分に関してはウエルベック的な解釈に近く、自らの華やかな仕事を「経済的雪かき」と称している。

現実的に仕事はそんなものだと落胆し、自分らしく生きる人物に惹かれ、自分に落胆しつつも異性による肯定と性的充足を得ることで、なんとか生きていく。

そして時に

「良いバーはうまいオムレツとサンドウィッチを出すものなんだ」

というような表現で、自分こそが真理を分かっていると思っている、若い男性の心を埋めてくれる。

それが20代の精神にはぴったりはまる。但しこの人生が続いていけば、次に訪れるのはウエルベック的な絶望になる。

つまるところ

このふたりに共感していては、禄でもない人生だということ。

そしてまんまと自分がそこに陥っている。

では、このふたりと無縁でいることが幸せかと言われれば、それは誰にも分らないし、違う立場から見ればまた別の絶望感はあると思う。

堅実で一般的な人生を生きていれば、この禄でもない人生も眩しく見えるだろう。ある程度を歳を経た独り身の辛さを、そうでない人は理解できないだろうが、終わりのない理想の自分を演じることは難しい。

時に父親という役割を演じ、自分の分身の未来を作る。そのための犠牲として経済的な精神奴隷があるなら、それは意味が変わってくる。

それに子育てという手つかずの趣味を超えた、大きな仕事を与えられることは、飽き飽きした趣味を続けているより遥かに有意義なものだと思う。

僕が考える幸せな人生は、

・自分を満たしてくれる真理的な成功
・愛のあるセックス
・男性としての肯定感を得られるセックス
・数十年演じてきた自分以外を演じられること
・経済的な成功

これを高いところで成功した人だろうなと思う。
僕が思いつくところだと、勝新太郎なんかがそれに当たるだろうか。

ただ僕が今より幸せを感じることを考えるのであれば、間違いなく愛する人との結婚になるだろう。

30歳ぐらいまでに結婚した人は分からないかもしれないが、きっと35歳ぐらいで結婚した人なら理解してもらえるだろう。

自己の肯定と周囲の肯定があってこその良い人生だが、歳を重ねてから、自己の肯定だけで生き続けるのは難しい。


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