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コケットリの表象;貴族社会を主流とした西欧女性服飾において(全文)

 裸身への罪悪感の無さから、幕末頃「原罪前の楽園の国」と評された国、日本。その裸身とは、官能美への賛嘆を喚起する理想的身体を意味するヌードというよりか、そうでないネイキッドと呼ばれる種類のものであったがしかし、現在の日本ではどうだろう。理想的身体なるヌードというものは指標として間違いなく存在するが、まだまだ裸身を官能美よりも猥雑な視線で捉え、消費する価値観のほうが、割合として優勢ではないだろうか。以降、女性の裸身による官能美と着衣の美との関係性について、どう発展し、最終的に日本の服飾とどのような関連が生じたかについて、述べていく。

 裸身との対比的状況として、衣服を纏った状態、というのがある。日本におけるヌードについて考えるなら、ヌードの概念と表裏一体の洋装を対比の条件に据えるが望ましいと思われる。日本において女性の洋装の黎明を象徴するのは、明治時代の皇室の装いである。『豊饒の海 春の雪』冒頭には、皇室女性の洋装を描写した場面がある。『豊饒の海 春の雪』は、夭折を繰り返し輪廻する主人公の魂を描いた四部作の第一部、悲恋をテーマとした三島由紀夫の小説である。

 主人公である侯爵家嫡男の松枝清顕は、宮家との婚姻が決まった幼馴染で伯爵家令嬢である恋人の聡子と密通し、子を孕ませ、現世を見限った聡子の出家により面会を拒まれ、恋焦がれて夭折する。清顕の容態が悪化し、聡子を訪ねた寺院の門で倒れる寸前に、彼は今生の集大成かのような感慨を得て、聡子に恋する伏線となる女性美に目覚めた日の走馬灯がよぎるのであった。その場面に当たり、三島はこう書き記した。


  あれこそは彼が人生において、目のくらむような女人の美に憧れた

  はじめであった。(『豊饒の海 春の雪』三島由紀夫,昭和52    

  年,p451)


女性美の憧憬の萌芽。明治時代から大正時代にかけての華族の不義密通を輪廻転生の観点を交えて描いたこの小説の女性美の本質は、江戸時代のそれの系譜を引いてはいるものの、国の西欧化に伴い変質したものだと仮定することができる。それは以下引用文、国策として皇室の服飾が西欧化されるためである。


   皇后は気品の高い、比類ない聡明な方だったが、このときはすで

  にお年を召されて、六十に垂んとするお齢であった。それに比べて、

  春日野宮妃は三十そこそこのお年頃で、お美しさといい、気品とい

  い、堂々としたお体つきといい、花の咲き誇ったようなお姿だった。

   今も清顕の眼にうかぶのは、諸事地味ごのみの皇后のお裾よりも、

  黒い斑紋の飛ぶ大きな白い毛皮のまわりに、無数の真珠を鏤めた妃

  殿下のお裾のほうである。(中略)妃殿下のお髪は漆黒で、濡羽い

  ろに光っていたが、結い上げたお髪のうしろから は、次第にその髪

  の名残が、ゆたかな白いおん項に融け入ってゆき、ローブ・デコルテ

  のつややかなお肩につらなるのが窺われた。姿勢を正して、まっすぐ

  に果断にお歩きになるから、御身の揺れがお裾に伝わってくるような

  ことはないのだが、清顕の目には、その末広がりの匂いやかな白さが、

  奏楽の音につれて、あたかも頂きの根雪が定めない雲に見えかくれ

  するように、浮いつ沈みつして感じられ、そのとき、生まれてはじめ

  て、そこに女人の美の目のくらむような優雅の核心を発見していた。  

 (『豊饒の海 春の雪』三島由紀夫,昭和52年,p12)

 三十そこそこのお年頃である春日野宮妃は、ローブ・デコルテを着用し、花の咲き誇るようなお姿であったと描写されている。彼女の着ているものがもはや日本の伝統服飾ではないことが、日本における女性美が西欧化に揺らいだことを象徴しているかに思われる。現実にも、1910年頃(明治40年代)の皇室女性の服飾に、「昭憲皇太后大礼服(マント―・ド・クール)(共立女子大学博物館蔵)」なるものが伝世しており、この現象は小説の脚色ではないことがわかる。

 さて、ローマ・ギリシャの服飾が隆盛した時代を除いたそれ以降、キリスト教における原罪の考え方により、衣服を身に付けることを嗜みとするのが根幹にある西洋服飾であるが、アダムとイヴの原罪による罪悪感が裸身の官能美という魅惑を裏付けてもおり、それは両義性なのだと言えるだろう。

 ここからは、16世紀から18世紀末のフランス革命直後までの女性服飾を概観することで、女性の裸身による官能美と着衣の美との関係性について考察していく。

 ここでは、西欧の女性服飾の着装方法に着目する。

【16世紀の西欧女性服飾】

 16世紀の女性服飾は、男性と同様にまずシュミーズを着る。その上に一種のコルセットとしての機能を持つ、カムロ織のバスキーヌ(basquine)を、下半身には、ペチコートであるタフタ製のヴェルチュガダン(vertugadin)を着ける。バスキーヌ(basquine)に使われるカムロ織とは、本来は山羊などの毛を使った東洋産の布で、15世紀以降はこれを真似た絹地を指す言葉である。
 このように下着を整えた上に重ねるのが、コットとローブであり、これらはタフタ、サテン、ダマスク、ビロードなどの布地で仕立てられる。コットの上に腰からベルトを下げることもあり、パテルノステル(ロザリオ)またはイタリア語でパーテルノストロと呼ばれた。
 夏服には、ローブの代わりにマルロット、もしくはベルヌを着ると伝えており、ベルヌ(berne)はアンダルシア地方の回教徒の女性が着た衣服、ベルニア(bernia)に因む。


【17世紀の西欧女性服飾】
【デコルテの流行】


 女性服飾の変化は男性服飾に比してゆっくりと進み、1630年頃には、コルセットであるバスキーヌ(basquine)と、ペチコートであるヴェルチュガダン(vertugadin)が消滅して全体に、手を加えない裸身のシルエットに近付き、その後徐々に、肩幅が広くウェスト丈が短いシルエットに移行していった。
 また16世紀を特徴づける襞襟が消滅すると、17世紀には次第に襟ぐりが大きくなって胸を見せるデコルテが好まれた。バティスト製・レース製の薄地のケープを用いて、大きく開いた胸元を覆うスタイルも流行した
 女性の服装の整え方は、ボディス(胴着)とジュップ(ペチコート)で、もとの裸身の線を補正した上に、ローブを着用するのが一般的となる。ローブには切口装飾や詰め物で、大きく膨らませた袖が付き、多くは前開きで、下のボディス(胴着)とジュップ(ペチコート)を覗かせた
 大きなデコルテのボディス(胴着)は、絹のリボンで前締めし、その上にピエス・デストマ(装飾的な胸当て)を付けた。スカートの下は、16世紀のヴェルチュガダン(vertugadin)に代わって17世紀のジュップ(ペチコート)を重ねて着用した。上のスカートをたくし上げて、ジュップ(ペチコート)を見せる着こなしが流行した。
 ジュップ(ペチコート)の重ねは三枚が基本となり、一番上はラ・モデスト(慎み)、中はラ・フリボヌ(お転婆)、一番下はラ・フィディル(忠義)や、ラ・スクレット(秘密)などと呼ばれた。表層では「慎み」を装い、一枚めくれれば「お転婆」、最後の一枚は「秘密」なのである。これら一連の名称からは、宮廷女性たちの心性が服飾に垣間見られていないだろうか。

【壮麗な宮廷衣裳およびローブ・ド・シャンブル/ネグリジェ】
 17世紀後半の女性服飾は男性服飾ほどの変化はないが、女らしさというジェンダーの、より強い表象が求められ、細くくびれた誇張のウェストが象る優美なシルエットが流行し、装飾の豊饒がみられていった。再び鯨の髭など堅い芯入りのコルセットできつく締め、細長いウェストのラインが復活した。
 デコルテは進展して、大きい襟ぐりをもつローブに、レースや薄地素材の大きな襟が付けられた。襟ぐりは水平なカットから17世紀末にはV字型前あきに変化し、V字部分にはやはりレースをあしらう胸当てや、エシェル(リボンをあしらった胸当て)をつけた。袖口にも惜しみなくリボン装飾を施すほか、アンガジャント(ギャザーやプリーツを3段以上重ねたレースやリネンの豪華な装飾)がつけられた。
 ローブは基本的に前あきであり、スカート部分の前は大きく開けて着用された。スカートの前面を後ろにたくし上げる着こなしは継続され、1780年代には、腰当を用いて腰の後部を膨らますシルエットが現れた。ペチコートは完全に隠蔽されるのではなく、見せる下着として存在感を強め、視認性が重要となり、幾層にも重ねた一番表側のものにはレース、フリル、刺繍などの装飾が華美に施された。
ペチコートは、服飾の一部でありながらも下着で、裸身と服飾の間に位置し、理想的身体のシルエット形成に一役買っている。西洋における17世紀後半の女性服飾は、裸身を隠蔽し、そのシルエットを理想的に誇張する下着が一部人目に触れ、女性の裸身を華美に彩るかのような存在意義を示していた。後述するがこのように、裸身と服飾との間に位置する、裸身を理想的身体・幻想的身体たらしめたり、皮膚を隠蔽することで性愛の手前にある交渉を文化的な営みたらしめたり、性愛そのものを即物的な性交渉ではなく情動の伴うものにする装置、副次的な服飾は、洋の東西を問わず幾つか存在している。ペチコートも、そうした副次的な服飾の一種だとみる向きがあってもよいと思う。

 17世紀後半の宮廷において、この頃豪奢で技巧的なモードが主流となり、貴婦人たちの盛装が豪華な刺繍、ブローチ、ネックレス、イヤリングなど夥しい装飾品が加わり非常に重量化する一方、私的な場面では寛いだ優しい衣服が着用されるようになった。ローブ・ド・シャンブル(ネグリジェ)などと呼ばれたこうした衣服には、柔和な色調や素材感が好んで用いられ、背にたっぷりと襞をつくりゆったりと羽織るように作られたが、その袖口や胸元には、例に漏れずレース、リボンが豪華に装飾された。美しい室内着はやがて女性服飾において、宮廷貴婦人の日常着として普及し、18世紀フランス宮廷服の原型となるのだった。

【18世紀の西欧女性服飾】
【魅惑と洗練のロココ】

 1715年に崩御したルイ14世の御代以降、絶対君主制からの解放の兆しは服飾にも表れ、従来の壮大・威厳・儀式性に代わり、軽妙洒脱・自由奔放という新趣味がパリを風靡した。ここにロココ文化の幕開けをみる。
ロココという名称は、後の19世紀につけられた蔑称(驚くべきことに)で、ルイ15世時代の美術事象全般に対し、些末・おどけた・皮肉の意を込めている。その語源は、小石や貝殻をセメントで固めた岩・壁面装飾を好んで用いるイタリアの様式、ロカイユに由来し、嘲笑を込めてロココと転訛した。現在では建築・彫刻・絵画など美術全般、服飾を含む工芸全般とされ、生活芸術全体にわたる一般的な美術様式を表す。その期間は、広義にはレジャンス(1715-23)、ルイ15世時代(1723-74)、ルイ16世時代(1774-93)初期にわたる。
 ロココ時代には生活芸術、とくに服飾は藝術の域に達した。前世紀・前時代には男性が女性と同等に、あるいはより過剰に装ったが、対比して18世紀というロココ時代では、社交界での役割の重要性により、女性のジェンダーによる社会的役割は次第に高まり、服飾の豪奢と華美は男性のそれを凌駕した。この事象は、文化史的側面ではこの時代、女性は男性と肩を並べていたということを意味している。
 宮廷女性は、後天的な修練に裏打ちされた先天的な感受性を武器に、政治・芸術・文学などに関与する社会的立場を得て、服飾における主導権を得、フランス・モードを強固に牽引した。

【18世紀後半の女性服飾】
【洗練と調和】

 宮廷女性の装いは華麗で艶やかなロココ文化の本質に頂点を極めつつ、衣服の快適性が求められ、寛いだ着こなし方が特徴づけられる。宮廷での正式な女性服はローブであり、見せるスカート状の下着であるジュップ(ペチコート)と、前あきのローブならばストマッカー(胸部に三角形のパネル状のピエス・デストマ)で構成され、これらがコルセットとパニエという造形的な下着の上に着装された。この時代を通して女性服の構成そのものには変化はないが、各々の時代の嗜好に応じ細部や装飾が変化し、女性的優雅さ・洗練・装飾性と同時の気紛れと突飛さ、という並外れた創造性がいっせい開花した。
 18世紀初頭、ルイ14世時代末期以降に流行した寛ぎ着から派生したローブ・ヴォラントは、肩からゆったりと布地が流れ落ち、円形ペチコートの上にふわりと広がる形状であった。ローブの下にはコルセットが着用されていたが、ローブはゆったりとして、新しい時代の寛ぎの感覚を表象していた。ロココの時代を一貫してローブの袖口を飾ったアンガジャントは繊細なレース製、あるいはドロンワーク製で、2~3段の豪奢なものもみられ、当時の価値から推測するに最高の贅沢品であった。やがてローブ・ヴォラントは、ローブ・ア・ラ・フランセーズ(robe a la francaise)へと移行した。
 18世紀中頃から快適性が求められたこの時代、宮廷以外では寛いだ衣服の着こなし方が、装いとして人気になる。庶民が着装した、略式の胴衣とスカートという着こなしは、次第に簡便化していた女性服飾に影響を与えていく。ローブ自体の簡略化が起こり、ピエス・デストマがコンペ―ル(前開きのローブの左右の身頃に各々固定された二枚の布)へと変更されたローブが登場する。従来は着装のたびにローブをピンで留めており手間がかかったのに比べ、この変化は女性服飾に極めて簡便さを齎した。その他、カザカンやカラコという気御能的なおしゃれ着、さらに多様なジャケットの変化を生んだ。
 着装の簡便化に拍車をかけたのは、より自然で簡素なアングロマニー(イギリス趣味)の流行だった。これは1770年代以降のフランス・モードに重大な意味を有し、田園の散歩や戸外での憩いが流行すると、ルトゥルーセ・ダン・レ・ポッシュ(ローブの裾を両サイドのスリットから引き出し、後腰にたっぷりと襞を寄せてからげる)がおしゃれな着こなし方とされた。この着装方法は、もとより庶民のものであり、彼らの外出着や労働着の中から生まれた実用のための工夫であった。やがて、これと同種のローブ・ア・ラ・ポロネーズが流行し、紐でスカートを持ち上げ、後腰に3つの襞を形成した。
 また、背中の襞はウエストまで縫い留められるようになり、ローブ・ア・ラ・ラングレーズが登場する。前身頃が閉じ合ったローブとジュップ(胴衣)で構成され、後ろ身頃の下端は尖ってスカート部に繋がり、スカート部の膨らみは減少し、パニエを着装せずにギャザーなどで丸く膨らませた。これはやがて、ピエス・デストマ(三角形の胸当)もジュップ(胴衣)吸収したワンピース形式に移行していった。

【パニエとコルセット】
 18世紀を通して女性衣服下にはパニエとコルセットが着装された。
 コルセットという言葉は本来19世紀以降のものだが、本稿では便宜上、コールやコール・ア・バレネを総称し、鯨骨入りのものを指してこう呼ぶ。
 コルセットは、ロココ時代になると、乳房が覗き出るところまで上端が下がった。かつてのように乳房を押えるのではなく、乳房を下から持ち上げる形となった。コルセットの仕立は、タイユールと呼ばれた男性仕立師の仕事であった。1675年、クチュリエ―ル(女性服を仕立てるための女性仕立師の組合)が設立されたが、コルセットは硬い材質や鯨骨を縫い込む技術に男性の力が必要であったため分業となり、設立後も引き続きタイユールの手で製作されていた。
 フランスにおけるパニエの登場時期には諸説ある。1718年頃パリに現れたという記録によれば、フランスの舞台女優が衣裳を大きく、ウェストを細く見せるために使用したとされる。初期のパニエは、鯨骨の輪を何段か付けたペチコートであった。当初それは円錐形であったが、やがてヒップの位置で丸みを帯び、次第に楕円の釣鐘型となり腰回りの嵩を増した。1750年頃、パニエは左右2つに分かれ、宮廷ではフランス革命まで着用が義務付けられた。

【二極性―極限の人工美と、自然回帰への憧憬と―】
 18世紀後期、旧体制(アンシャンレジーム)崩壊を前に、ロココ文化は既に衰退へ向かっていた。ここに、宮廷での過剰装飾の人工的美意識と、それと対照をなす自然回帰への憧憬からくる快適性を模索した服飾と、2つの服飾様式が登場する。
 1774年、ルイ16世の即位によりファッション・リーダーとなったのは王妃、マリー=アントワネットであった。
 パニエは大きく左右に広がり、服飾造形は奔放さを増す。これに拍車をかけたのは、パニエの広がりと競うように巨大になっていった結髪と頭飾である。この時期までにロココの女性服飾は18世紀初頭、ルイ14世時代末期のローブ・ヴォラントからルイ15世時代の衣服の簡素化と自然主義(アングロマニー)を経て、ローブ・ア・ラングレーズからワンピース形式への移行に至った。18世紀後半のルイ16世時代、誇大な結髪とパニエの膨張による、布製の建築物といった外観を呈す衣裳からは、ロココ全盛期の服飾上の軽やかさは消失し、直近に勃発するフランス革命を、絶対王権制の華やかな破滅を予兆する、過剰装飾の極み、禍々しい歪つの美を見て取ることができる。
 宮廷での常軌を逸しつつある人工的な造形美が生み出された一方、意外なことに服飾の簡素化が進む潮流も存在していた。18世紀を代表する美術様式、ロココの特徴である、官能の歓びに耽ることで生を肯定する享楽主義、その甘い倦怠に浸るための追求は建築分野にも及んだ。ロココの潮流は、利便性を活かした快適な住居と、私的空間の充実を図るための室内装飾の発達を促し、その優雅と倦怠にけぶる享楽主義追及の潮流は、衣服の快適性にも及んだ。
 その根底には、宗教的権威への反対に裏付けられた、人間性の尊重、人間的かつ合理的な思考を唱え、宗教的権威からの解放という、人間生活の改善を行うための新秩序の設立を主張した啓蒙思想の動きがあった。この啓蒙思想の潮流は、頽廃した絶対王政の元でその傾向を強めた。フランス革命の伏線である。また、1738年に開始された古代ローマの遺跡ヘラクラネウムの発掘は、新古典主義が生まれる契機となった。
 この新古典主義と呼ばれる古代ギリシャ・ローマへの崇拝は、服飾史的にはキリスト教による裸身への罪悪感なる原罪への反発でもあり、政治制度に変貌をきたそうとしていた西洋社会において大きな意味を持った。その古代礼賛は、宗教を放棄し「自然に帰れ」と説くジャン=ジャック・ルソーの思想を背景に、18世紀後半から19世紀初めにかけて、芸術から生活全般にまで広範に、西欧全体を風靡した。ここに、絶対王政を背景に育まれた、宮廷での極限の人工的造形美は、美的価値が飽和し限界を迎えた状態で存在し、それと相反する新古典主義(「古代礼賛」、「自然主義」)を背景に生まれた服飾が、西洋の服飾文化を簡素化への道のりに向かわせた。
 絢爛たる宮廷では大きなパニエの絹製のローブを纏っていたが、それは神が彼女に囁き実行された変革であったか、人間の第六感であったか。絶対王政の限界を服飾流行上で敏感に捉えていたマリ=アントワネットは社交生活を抜け出し、プチ・トリアノンの田園風別荘アモーでの生活を愛し、木綿の簡素なシュミーズのようなドレスに、大きな麦わら帽子をかぶって羊飼い遊びに興じていた。王妃とその取り巻きたちは、既に1775年頃にこのような白い木綿のドレス、王妃風シュミーズ・ドレス(シュミーズ・ア・ラ・レーヌ)を纏ったと云われ、これはシルエットや構造上において、次なる総裁制時代のハイウエストのドレスへの過渡的なものであった。1786年、英仏通商条約によりイギリス製木綿が大量にフランスに流入し、簡素な白い木綿のドレスは、豪奢な絹のローブに取って代わった。フランス革命前夜、既に服飾上の美的価値は転換し、ここにもある種の「革命」が見て取れる。
 徳井淑子は『フランス・モード史への招待』にて、「政治的対立がすべてを被うわけではない(2016,p29)」とし、服飾について「政治・外交史だけではわからない矛盾とも見える人びとの心性を教えてくれる(2016,p29)」と述べている。ここではフランス革命前夜、アメリカ独立戦争を巡り、フランスとイギリスが対立したにも関わらず、その自由主義を礼賛し自然主義(アングロマニー)である英国趣味が生まれた事例が引き合いに出されている。規模は外交史の異文化ではなく、フランス国内の政治史における貴族と平民の身分の確執についてとなるが、王妃が牽引したモードである、白い木綿のドレス、王妃風シュミーズ・ドレス(シュミーズ・ア・ラ・レーヌ)が革命後も引き続き流行したことは、政治史からすれば矛盾を孕む人間の心性、文化史的側面を伝えている事象であると、筆者は考える。

【フランス革命から、ナポレオンによる帝政時代の服飾】
 1789年に三部会開催、バスティーユ牢獄攻撃により、フランス革命は勃発した。当然、革命派の服飾上にもその影響が表れるのであるがしかし、ここでは割愛するのと、それを期に全てが一新したわけではないことを言上げする。革命期の混乱により、変転する政治とともに絶対王政から脱したことを象徴する、新しい服装が次々と要求され、作り手はそれに応えていた一方で、依然として旧体制(アンシャンレジーム)の服装の着用者も存在したと云う。また前述の白い木綿のドレス、王妃風シュミーズ・ドレス(シュミーズ・ア・ラ・レーヌ)は、革命を前にして既に、服飾上では革新的な美的価値の転換を示しており、革命を挟んだこの時期、その前後で新旧取り混ぜた重複が見られている。
 革命後の混沌とする世の中は、革命前の宮廷女性の奔放さとはまた別の意味で、奇抜な服飾を生んだ。革命体制に反対の意を持つ王党員は奇抜なモードでこれを表明し、ミュスカダンと呼ばれた。この流れを汲んで総裁制時代には、「奇妙な」「風変わりな」という意味のアンクロワイヤーブルと呼ばれた洒落男が登場する。対する女性はメルベイユーズと呼ばれ、薄く、殆ど身体が透けて見えるようなシュミーズ・ドレスを着た。彼女らはコルセットもパニエも放棄した。
 このシュミーズ・ドレスはさらに研ぎ澄まされ、永遠の美、すなわち古代ギリシャ・ローマ的美を理想とした単純性、秩序を重んじた。剥き出しの幾何学的形態というべきシルエットは、装飾を拒否した新古典主義的な様式と同調した服飾表現へと進展する。ギリシャ神殿のコラム(円柱)を彷彿とさせるストレートなシルエット、身頃部分とスカート部が一続きとなった高いウエストラインのドレスは、「身体を包むものという服の機能が単純な綿素材によって明快に定義づけられている。(周防珠美、p104、l1、1998、『世界服飾史』、美術出版)」との見方もあるが、身体論的な視点で見れば、「そのシルエットにより身体の顕示・誇張を放棄し、透ける素材によってほのかな隠蔽が生じている」と解するべきではないかと考える。新古典主義の美意識において、木綿のモスリン、ペルカル、ゴーズ、あるいはリノンといった素材は、その簡潔性が時代の美意識と合致したために選ばれたのであり、モスリンが決して安価な素材でなかったことを見れば、新しい美意識・美的価値が生まれたと見て取ることができる。
 大国がもてはやされた当時、列強国の頂点に達したフランスでは、ロココという文化の成熟期を通過し、フランス革命を経て近代社会が形成されていく時代であった。一方イギリスでは、それが産業革命という社会構造の変革によって実現されていく時代であった。このような激動期を反映した服飾は、優雅な衣裳を好き放題に纏ったロココの時代から、装飾を拒否する衣裳の新古典主義の時代へと劇的に変化を遂げた。

【考察】

 ここまで、16世紀から18世紀末頃までの西欧女性服飾の変遷を概観した。この一連の時代を経て言えることは、服飾が、理想的身体なるヌードの隠喩を目指すがごとく、下着で裸身を顕示・誇張・整形し、その下着を視認性あるものに装飾として展開してくこと、裸身そのものを部分的に見せていくことで、発展してきたということである。そして新古典主義のシュミーズドレスで、キリスト教の原罪から脱却した理想的身体・ヌードの姿が立ち現れ、服飾におけるかの現象は一つの循環を迎えるのである。

 理想的身体なるヌードと、それを彩る下着、下着が発展した装飾との関係性は密なものであり、貴族社会の社交の中で発展してきた文化のなかに位置づけられる。社会学者ゲオルグ・ジンメルは著書『社会学の根本問題』のなかでこう述べる。


  男性が、この自由に揺れ動く遊戯、エロティシズムにおける或る決

  定的なものがただ遠いシンボルのように仄見える遊戯、それ以上の

  ものを求めない時、(中略)あの仮初のものの魅力を感じるように

  なった時、その時に漸く社交が始まる。コケットリは、社交的文化

  という高所にこそ優美な花を開くもので、エロティックな欲望、獲

  得、拒否という(中略)こういう切実なもののシルエットの縺れと

  して生まれるものである。(中略)社交におけるコケットリは、

  (中略)奇妙な、いや、皮肉な遊戯なのである。社交で社会の諸形

  式の遊戯が行われるように、コケットリでは、エロティシズムの諸

  形式の遊戯が行われる(『社会学の根本概念』ゲオルグ・ジンメル,

  翻訳1979,p85)


 彼の言葉を借りていうならば、貴族階級を主流とした西欧女性服飾における、下着から装飾への発展は、これこそが「コケットリ」、「遊戯」、「社交」の具象であろう。冒頭部の問題提起との関わりであるが、一介の生活者の中にも、社交的文化における遊戯であるコケットリを解し、理想的身体なるヌードおよび、その暗喩である服飾ー装飾された身体ーを美として鑑賞する視線を持って然るべきと思う。

 そしてそれは、原罪前の楽園の国と評された日本にも見られる、裸身への罪悪感の無さが欧米に取り入れられる伏線となり、有り体にいえば、西欧における身体論としてのジャポニズムの萌芽では無かったか。この現象は100余年ほどかけて西欧女性服飾の中で成熟し、日本の皇室女性により洋装が公のものとなる頃ー時は明治時代ーを契機に、また日本へと還って逝くのである。


〈参考文献〉

『世界服飾史』深井晃子監修(3.16世紀 徳井淑子,4.17世紀 古賀令子,5.18世紀 周防珠美),1998,美術出版社

 

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