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汝の意志するところを行え

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

先日、講話をする機会があり、テーマを考えていて思いついたのが「求めよ、さらば与えられん」でした。
新約聖書のマタイ福音書7章7節に出てくる言葉で、このように続きます。

求めよ、さらば与えられん。
尋ねよ、さらば見出さん。
門を叩け、さらば開かれん。
すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。

これは神に祈ることで、正しい信仰が与えられる、ということを意味しているそうです。
私がこの言葉を印象的に覚えているのは、高校時代に読んだ新聞のエッセーが原因です。
その記事では「欲せよ、さらば与えられん」と訳されていましたが、アラン『幸福論』にこの言葉が出てくるのだそうです。
筆者は受験に失敗し、滑り止めの大学に入るのですが、諦めきれずに一念発起して再受験し、見事第一志望の大学に受かります。
その時初めて自分は「真に欲した」のだと思う、と、記事は締め括られていました。

最近、アーティスト仲間と七福神巡りをした時に、願い事は神頼みではなく、言語化することで自分自身でそれを実現するのだ、ということを再認識しました。
その時に出たキーワードが「セレマ」です。

ギリシア語のセレマは聖書中に登場する言葉で、「人間の意志を動かすもの」を意味します。
マタイ福音書第6章には、キリスト教の代表的な祈りである「主祷文」が記されています。
10節の「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」この「みこころ」がセレマです。

5世紀の聖人で神学者のアウグスティヌスは、「愛せよ、そして汝の欲することを為せ」と記しました。
また、16世紀の人文学者、フランソワ・ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の中で登場させた「テレームの僧院」(テレームはセレマのフランス語読み)の唯一の規則として、「汝の意志するところを行え」を掲げました。

20世紀になって、セレマを再評価したのが、大魔術師であるアレイスター・クロウリーです。
彼は聖守護天使エイワスの啓示を受けて、『法の書』を書き下ろします。
『法の書』はセレマを中心とし様々な霊的思想体系の要素が織り込まれており、その思想を要約すると以下のようになります。

・汝の意志するところを行え、これこそ法のすべてとならん
・愛こそ法なり、意志下の愛こそが
・「汝の意志することを行え」ということ以外に法はない

「求めよ、さらば与えられん」がまだ、受動態であることに比べ、「汝の意志するところを行え」は完全に能動態です。
これこそが完全なる自由を体現する思想ではないでしょうか。

なお、「愛こそ法なり」ですが、この愛(アガペー)はカバラ的にはテレマと同じ数値になるそうです。
従って「意志」「愛」は同じ性質のものであると言えます。

私のことに話を戻すと、意志の力が弱いとまではいかなくても、決して強くないのが悩みどころです。
魔術師を目指せるくらい強い意志を抱くにはどうしたら良いのか、日々知恵を絞っています。

一つの方法として思いついたのが、先述の「言語化」ということ。
宣言することで意志を奮い立たせることが可能かもしれない。
この覚書もnoteに残そう、と思い、久しぶりに記事を書いた次第です。

そんな訳で、気紛れな更新頻度ですが、今年も宜しくお願い致します。

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