【小説】傘と共に去りぬ 第9話 必要な後悔【毎月20日更新!】
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それが最初に確認されたのは遡ること五百年程前。とある江戸に捕らえられた罪人の影から発生したとされている。
無脊椎で不定形。陽が沈む時間帯になると活発に動き出し、人間の感情を操作し、時に捕食する生態がある。それはいつしか忌み嫌われ、ある時代には絶滅寸前まで追い込まれた。
どういう原理なのか不明な点が多いが、それの生態について最も詳しく記されたとある書物によると、それの皮膚は、動物の脳と酷似していると記されていた。
また、それが絶滅に追いやられた経緯としてこんな逸話がある。
それには馴染みの武士がいた。
武士は心優しき者であったが、虫も殺せぬほどの臆病者でもあった。
ある晩、武士はそれに「日を三つ跨ぐと戦が起きる」と言った。武士は別れを告げにきたのだ。
「主君のため義を果たしたい。拙者からこの怯弱の心、食べてくれぬか」
馴染みの言うことを素直に受け止めたそれは、言われるがまま負の感情を食べ、代わりに気持ちばかりの勇気を植え付けた。
その兵士は他の者たちを従え、戦地を躍り出たとされている。
しかし、状況は劣勢。武士たちの士気が落ちていることを思慮した将軍は、それに目を付けた。それの集落を攻め落とし、
仲間の人質と交換に契約を命じた。それは渋々受諾した。
それが幾何の命と引き換えに、肉体に刻んだ掟は三つ。
一つ、それが捕食するのは人間の負の感情のみとする。
二つ、それが捕食する際は、正の感情を与えなければならない。
三つ、先の二つを破るものならば、その身をもって償うべし。
将軍の命により、それは幾名かの兵士に勇気を与えた。しかしそれは骸の勇気だった。戦況が変わらないことに憤りを覚えた武将は、それの一族は一夜にして始末する。
唯一の生き残りであったそれは寝込みの武将を狙い、負の感情をむさぼり、代わりに決して醒めない夢を与えたという——。
10月/ カゲ(名称不明)
カゲは東京にいた。この地に流れ着いたことに意味はない。ただ、感情を捕食する彼にとって好都合な場所だった。人は群れことで負の感情を生む。その想いが強いほど、感情は匂いを発する。ただ、カゲには人間のような嗅覚を司る器官は存在しない。匂いや香りという語彙が、最も人間の感覚に近いというだけの話だ。
折節の移り変わる時期は、カゲにとって狩の時期だった。路地裏の影溜まりから目を覚ますと、まるで地面から体を引き剥がすようにして歩みを進める。最後の自棄を捕食したのは八月。かれこれ二か月の間、絶食が続いていた。
「まさか傘も思っていなかっただろうな。粗雑な扱いをした人間の手元に戻ることになるなんて」
偶然見つけた二人の若者の背中を追う。彼らからは重厚な自棄が香っていた。特に、右側を歩く半透明の傘を持つ小太りな男からは、禍々しい執念とも思わしき卑屈さが漂っていた。カゲは考える。彼は、負の感情を基盤に生を実感している、と。こういった気違いは基本相手にしない。かつて細胞に刻まれた忌々しい掟を、誤って破ってしまう可能性があるからだ。
代わって、左側を歩く痩身な男からは微量ではあるが、清らかな自棄が香っていた。カゲは彼に的を絞る。
痩身が小太りに言う。
「それどう考えたって人の物だろ。警察に届けたほうがいいんじゃないか?」
「やだね。お前、よく考えてみろよ。むしろこれはチャンスなんだよ」
「なんのチャンスだよ」
「決まってるだろ。この持ち主と出会うためのチャンスだよ」
カゲが予想した通り、小太りな男は他の人間と比べて、少々厄介な性格をしているようだった。だが、カゲには関係のないことだった。カゲは捕食のタイミングをうかがう。自らの姿を周囲に晒すのは危険が伴う。見誤ると、怯えて逃げられてしまうことが多い。恐怖以上に、叶えたい願いがあるか否か、判断しなければならない。
カゲは自らの体を薄く伸ばし、他の影に潜りながら耳を澄ませる。
街の中心には川が流れている。東と西を分断する大きな川だ。近頃、台風の接近があったせいで水位が上がり、色も茶色く濁っていた。
橋を渡ろうとした時、女二人とすれ違った。先頭を歩く女は髪を後ろで束ね、もうひとりの女は短く切りそろえていた。ポニーテールの女が、えっ、と声を漏らして振り返る。カゲは、自分が見つかったのかと思い、身構える。しかしそうではないらしい。女たちはなにかを示し合わせるように小声で話す。——あの傘、青い星のチャームがついてるよ。カゲにはそう聞こえた。
「あのっ、すみません!」
橋を渡り切ったタイミングで、男二人が足を止める。自分たちに言われているのか、まだはっきりとわかっていないような顔に、先頭を歩く女が続けける。
「突然すみません。その傘、見せてもらえませんか?」
カゲは欄干に影に身を隠す。どうやら彼らは知り合いではないらしい。
「これがどうかしたの?」
「えっと、その傘って、だれかから借りたりしてませんか?」
「あぁ、これ。うちのマンションで拾ったけど? それがどうかした?」
小太りの男は悪びれることもなく答えた。拾った傘を持ち歩くなんて、つくづく変な男だとカゲは思う。ショートヘアの女が「あんなに汚れてた? もっと綺麗だったと思うけど……」と小声で訝む。彼女が言うように、男が持っているビニール傘は傷だらけで、茶色く汚れていた。なにか特別な傘であるようには見えない。
「いやでも、間違いないよ。ニイナ見て。ほら——」女は傘を指差した。「あのチャーム。間違いないよ」ポケットからスマホと取り出し、画面に写るものをふたりで示し合わせる。カゲの位置から画面は見えないが、そこには小太りの男が持つ傘と同じものが写っていることは想像できた。
「確かについてるけどさ、もうちょっと疑いの目を持とうよ。それにほら、あの人、なんか感じ悪そう……」
「これが、どうかしたの?」
小太りが得意げな笑みを浮かべつつ、鼻を膨らませた。見せびらかすように傘を前に出す。柄の部分についている青い星形のアクリルチャームが揺れた。どうやら、あれが持ち主を限定するアイテムであるらしい。カゲは隠れたまま、事態の行く末を静かに見守る。自棄の香りが段々と濃くなっていくのを感じる。
「あの、その傘、わたしたちが探してる傘かもしれなくて。前に知り合いから借りたんです。でもなくしちゃって。その取っ手についてる青いチャーム。わたしが探してる傘と同じなんです」
そう言って、ポニーテールの女はスマホの画面を男たちに見せる。写っているのは確かに、小太りの男が持っているのと同じ、青い星形のチャームのようだ。
「もしよければ、それ譲ってもらえませんか?」
「ふーん、君たちはこれがほしいんだ」
小太りの言葉に、なにかを察したのか痩身の男が「ミワ、お前まさか」と言う。ただ、言葉を遮ろうという意思は感じない。
「だったらひとつ、条件があるんだけど」
「条件ですか?」とポニーテールの女が復唱する。
「俺とデートしてもらいたい。それならこの傘を返してあげてもいい」
ニイナと呼ばれていた女が「はぁ?」と眉間に皺を作る。「キモイんだけど。あいつヤバくない? 相手にしないほうがいいよ」と姉の手を引っ張っる。しかし、ポニーテールの女の視線は、依然傘に向いていた。彼女にとってそれほどまでに、手に入れたいものらしい。カゲは感覚を研ぎ澄ませる。濃密な自棄の香りは、彼女から発せられていた。
「あ、嫌なの? それじゃあこの傘は渡せないなぁ。おいサダぁ、もう一軒寄ってこうぜ」
ミワはそう言って、体をくるりと捻り、歩き出そうとする。大股にゆっくりと進むその動きからは、引き留めることを期待しているように思えた。彼の背中を追いかけるサダが、ミワの耳元で話す。
「おい、待てよ。ミワ、流石にかわいそうだ。返してやったらどうだ」
するとミワはぴたりと足を止めた。わかってないな、という顔を作り、唾を飛ばしながら雄弁に語りはじめる。
「おいおいおい、考えてみろよ。川に捨てた傘がなぜかアパートのゴミ捨て場にあって、それを探してるいたいけな女の子がやってくる。これこそ運命と呼ばずしてなんと呼んだ」
「だからって、デートないだろ。無茶苦茶だ」
「無茶苦茶で結構」
ミワは振り返り、睨みつける女たちを見た。空気がぴしゃりと固まる。
「で、どうすんの? デートができないなら、この話はなしだ」
すると、ポニーテールの女が絞り出すように「わかりました」と言った。
「デートするので、その傘を返してください」
「ちょっとお姉ちゃん、あんなやつの言いなりになることないって!」
ニイナは姉の腕を必死に引っ張るが、彼女の表情を見るに、意思は固そうだ。なにが彼女をそうさせるのか、カゲにはわからない。彼らが離れ離れになったタイミングを見て、自棄を喰らってやろうと考える。今は我慢の時だ。カゲは変わらず欄干の影から彼らの会話を見守る。
「その言葉を待ってたよ。君、名前は?」
「イチカです。あの、傘を……」
「イチカちゃん。ダメだよ。返すのはデートが終わってからだ」
ニワは口元を大きく歪ませて笑った。
「ではLINEの交換しよう。連絡取れないと、逢瀬の予定も決められない」
「……わかりました。えっと、これがわたしのIDです」
イチカがスマホを操作し、ニワに見せる。ニワがQRコードを読み取ろうとした時、ニイナがイチカのスマホを奪い取った。
「あのっ! やっぱりお断りします。行こう、お姉ちゃん。あんなキモいやつに従っちゃダメ! なにされるかわかったもんじゃないんだから!」
そう言ってニイナはイチカの腕を引っ張り、男たちが見えなくなるまで走った。逃すわけにはいかなかった。カゲはその背後を追いかける。たどり着いたのは小さな神社。彼女たち以外に人の気配はない。カゲにとって、木々で覆われた境内は動きやすく、好都合だった。カゲは葉の影に潜り、彼女たちの近くまで忍び寄る。
ニイナが膝に手を置き、息を切らしながら言った。
「ごめん、お姉ちゃん。傘、逃しちゃったよね」
「ううん。ありがとう。実を言うと、ちょっと怖かったから……」
「取り返したい気持ちはわかるけど、ダメだよ。そんな風に自分を犠牲にしたら」
「でも、あのミワって人が王子様の傘を持っていることが、なんか許せなかったの。変だよね、顔も名前もわからないのに、こんなことを思うなんて」
「……それでいいんじゃない? わたしも恋とかあまりよくわかんないけど、その気持ちは間違ってないと思うよ」
「そうえば、ニイナはあれからどうなの? えっと、フジタくんだっけ……?」
「フジクラくんね。一体だれと間違えてるの?」
「妹思いで、優しいお兄ちゃんで」
「フジクラくん、次男だけど」
「好物は豚まんで」
「うん」
「語尾に『ブー』って付く」
「それブー太郎だ。だれがブー太郎の本名なんかわかるのよ!」
「ニイナだって知ってんじゃん」
「お姉ちゃんが変なボケ入れてくるせいで詳しくなったの!」
ニイナの声が反響する。そのままふたりは腹を抱えて笑い合った。
「まったく、いつか酷い目に遭っても知らないからね!」
「そういえば、さっきの二人。永沢くんと藤木くんみたいじゃない?」
「確かに、なんか似てるかも」
「それにしても、人の弱みにつけこんで、あんなこと言うなんてサイテーだよ! あいつら絶対モテないでしょ! 思い出すだけで鳥肌が立つ。いつか必ず取り返そうね!」
ニイナがイチカの手を引き、歩き出そうとする。しかし、イチカは手を握ったまま、動こうとはしなかった。まとまった風が吹き、葉擦れの音が大きくなる。なにかを告げようとする意志を感じた。うつむいたまま、彼女は静かにつぶやいた。カゲはすかさず、イチカの足元までにじり寄る。
「……二菜。本当のところ、もう、手に入らなくてもいいかなって、思ってるの」
「どうして? 武士みたいに帯刀して持ち歩こうとしてたのに」
「だって——」
その瞬間、自棄がぶわっと香った。空腹で腹が鳴るように、全身が震え上がる。影から体を引き剥がし、背中からのっそりと起き上がると、体の形を変える。二足で立ち、手はぶらつかせ、前かがみの姿勢で彼女たちを見る。
「汝の望み、叶えてやらぬこともない」
「お姉ちゃん……!」
ニイナという女は危機意識が強かった。カゲが姿を現すと、すぐさまイチカの手を思い切り引っ張る。遅れて、はっとした顔をイチカが作る。砂利を蹴る音が鳴る。鳥居に向かって走り出すが、カゲは不定形の腕を伸ばし、ふたりの足首を掴んだ。ふたりともそのまま前に倒れ、奇声を上げる。イチカが妹の名前を叫ぶ。
「誰か助けて! お願い! 離して!」
ニイナが体を捻り、まとわりつく腕を引き剥がそうとする。しかし、触れた瞬間から水のように柔らかくなり、掴むことができない。イチカも歯を食いしばりながら、空いた片足でカゲの腕を蹴った。ふたりの顔に焦りが滲む。
「対話はできぬか」
理性を失った状態では話ができないと悟ったカゲは、イチカを掴んでいた腕を解放する。代わりに、ニイナの首を軽く締めた。かはっ、とニイナが声を上げる。「やめて!」という声が境内に響く。
「汝の望みを聞かせよ。さもすれば、解放してやらんこともない」
「ニイナを離して!」
「違う。汝の望みはそれではない。真に喉から手が出るほど手にしたいものがあるはずだ」
彼女の顔に苦しさが滲む。むせ返るほど濃い自棄が、まだ出ていなかった。
カゲの言葉に従い、イチカは頭を巡らせる。その間、カゲは再び姿を変え、ニイナを羽交い絞めするような形をとった。すると、ある瞬間を境に強烈な香りを感じた。カゲはすかさず、「それだ」と言う。
「素晴らしい自棄。至高の香りだ。その望み、叶えてやろうぞ」
「……ねぇ、ひとつ聞いてもいい?」
「なんだ」
「ジキってなに? わたしたちをどうするつもりなの……?」
「自棄とはお前たち人間の負の感情であり、後悔や未練が集合した結晶。我の主食だ。捕食には作法がある。汝らの言葉で言う、テーブルマナーだ。それが、望みをひとつ叶えることだ。この世界の行動理念は相互扶助でできている。お前のその根源的自棄を口に出してみろ」
カゲは嘘をつく。叶えられると言っても、ないものを作ることはできない。まるで願いが叶ったかのように、錯覚、脳を操作するだけだ。以前、捕食したラクタロウという青年は「世界から演劇を消してくれ」とせがんだ。だが、実際に世界から演劇を消すことなんて到底不可能。奴の脳内から演劇にまつわる記憶を消し去っただけに過ぎない。ただ、近頃どういうわけか能力にバグが起きるようになった。周囲の人間にも、記憶操作が作用するようになってしまったらしい。
「自棄を食べられたらどうなるの?」
「我が望みを叶える。それだけだ」
彼女の口から発せられる言葉を待つ。
「……わたしはもっと、自分に堂々とありたい。自分に自信がない。ニイナみたいに、傘を貸してくれた彼みたいに、自分が正しいと思えることをしていきたい」
「おぉ、素晴らしい。至高の自棄。お前の望み、叶えてやる」
「でもっ……!」
イチカが叫ぶ。
「それは、だれかに叶えてもらうものじゃない。わたしはなにもいらない。叶えてもらわなくていい。わたしは、わたしのままで、必ず王子様を見つける! あの日の後悔も、全部残したままでいい。後悔があるから、わたしは強くなれるの!」
彼女の瞳が、真っすぐカゲを捕らえた。
「……それが、汝の望みか……」
「うん。これがわたしの望み」
カゲはニイナを羽交い絞めにしたまま、遥か遠い記憶を思い出していた。
あの心優しき武士が戦地へ向かうために、本当に必要だったものはなんだったのか。怯弱の心を食べてほしいと言っていた。カゲは負の感情を食べた代わりに、戦うための勇気を与えた。勇気こそが、人を強くさせるものだと、彼は言っていた。彼に死んでほしくなかった。だからカゲは勇気が必要だと判断した。しかし、彼は真っ先に死んだ。その様子を見て、後続の武士たちの活気はなくしてしまった。勇気なんてなんの意味もない、カゲはそう思った。ただ、目の前の女は、後悔は残したままで良いと言っている。その目に嘘は感じられない。むしろ、彼女からは強い信念すら感じた。
「……わかった。汝の望み、叶えてやる」
なにもいらないと言われたのは、生涯はじめてだった。
カゲは心のどこかでわかっていた。例え自分がなにもしなくても、彼は死んだのだ。勇気の問題ではない。彼は弱かった。それだけの話だった。
彼が戦死した後、カゲは後悔にさいなまれた。戦に出たくないのなら、逃げてしまえばいいと言えたら良かった。彼の本心を感じ取っていたはずなのに、その気持ちに目を瞑って、言われるがまま不安を食った。お節介にも勇気を与えた。間違っていたのは自分自身だった。
カゲは体から腕を生やし、イチカの頭まで伸ばす。
「それでは頂くとしよう」
カゲは再び嘘をついた。彼女からなにも食べなかった。代わりに、後悔を繰り返さないだけの勇気を与え、それを最後に姿を消した。
※※※
わたしたちを襲った怪物は突然霧になった。
なにが起きたのかわからず呆然としていると、ニ菜が飛びついてきた。普段気を張っている彼女も怖かったらしく、抱きついたまま大粒の涙をながしていた。
しばらくすると、遠くから「おーい」と声が聞こえて振り返ると、橋の上で出会った男のひとりがいた。確か、サダと言っていただろうか。
「これ、欲しいんだろ。返すよ」
彼の手にあったのは、星形のチャームがついたビニール傘だった。
「どうして?」
「いや、なんか君たち困ってそうだったし、あいつから奪い取ってきたんだ。なんかオレも悪者みたいで、気分悪かったし、それに——」
彼は私の目を見て、真っすぐな言葉で言った。
「後悔したくなかったんだ」
傘を受け取ると、彼はそのまま走って帰っていった。
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※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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