見出し画像

旅で無気力になる件

こんにちは、ゆもです!
現在ネパールのカトマンズからポカラへ無事到着!
いよいよ5日間のヒマラヤトレッキングを開始します♪

今回はそんな中で、最近思っていることを呟こうと思う。

自分はバックパッカーとしてひとり旅をしているのだが、旅先でたびたび無気力になってしまうことがよくある。

自分は何でここにいるんだろう
何してるんだろう
何をすべきなんだろう
何もしたくない。。。
みたいな無気力

今回はその話をする。


旅の非日常的魅力

まず、旅というのはそもそも非日常を味わうものだと思う。
把握している土地から離れ、学校とか仕事といったタスクからも離脱する。家族や友人といった心を許す人たちともひとたび別れを告げる。

知らない土地、知らない人、知らない文化に触れる。
旅はそうした非日常空間に自分を連れ出す、あるいは自身の新しい日常となる空間を探しに行く。そんな魅力があると思う。

バックパッカーの形のない自由

そんな旅の魅力が凝縮してるのが、バックパッカー旅ともいえる。リュックひとつで異国に乗り込み、チープな宿を練り歩く。

観光と旅はちがう。

確かに旅も一種のvacation であるから、観光の面もある。ただ観光というのは、自分の日常空間より贅沢な時間を過ごしたいが根底にあると思う。ちょっといいホテルに泊まったり、奮発して美味しいもの食べたりとかね。

一方でほとんどのバックパッカーたちはそうしたラグジュアリーなものを一切求めていない。3段ベットが並ぶドミトリー、共用のバスルームとトイレ、極力安くすませるご飯。。。クタクタの服や、リュックにぶら下がった薄汚れたサンダル。こうゆー人たちが求めるのは、新しい経験と出会い、あるいは、逃避
バックパッカーが集う宿に泊まると、世界中からの旅人に巡り会う。世界中を旅している面白い人たち。

ここでわたしが言いたいのが、旅をして得られる非日常空間というのは、自由な空間であるとも言えるということ。

バックパッカー旅は完全な自由である。

どこに行って、どこに向かって、どこで眠って、何を食べて、何をするのか、全てが自由。
自分でなーんでも決めていい。
時間が完全に自分ひとりのものになる
何にも縛られない、ぜんぶが自分次第。

けれども、完全に自由な空間というのは、時に自分の首を絞める。何故最高に自由なバックパッカー旅が無気力をもたらすのか。自分なりの解釈を述べてみる。

無気力を解釈する

完全な自由がもたらす脱力感

結論、それは完全な自由というのが人間にとってベストな状態とは言えないから。

人間は常にタスクやキャリアに追われてる。それは生きるためにマストな営みだけでなく、社会が要求する勉学や仕事、家庭空間がある。

そうした自己完結では済まない不自由さが特に現代社会では不釣り合いになっているから、メンタルなんかに影響し、人に自由を渇望させている

ひとりで旅するバックパッカーの自由は、そういった人間的しがらみから離脱した状態とも言える。ふわふわと自分の選択次第で知らない土地を渡り歩く。誰も自分のことを知らないし、こちらから動かなければ誰にも話しかけられず邪魔されない。

始めはそのふわふわとした自由の解放感と心地よさに酔いしれる。私は自由だ、好きなときに何処へでも行ける。。次はあそこに行こう、あれを食べに行くのもいいな。。。

けれど次第にその掴めないふわふわとした自由に不安を感じて来るのである。
日本はいま帰宅ラッシュかしらん、次は何しよう、何かやりきっちゃったなあ、もういいなあ、でも帰国したくもないなあ。。動きたくない。。。

例えば、親しい友と話して過ごす時間は、お互いの視点や経験のフィードバックとなって還元される。どこかで労働した時間はお金となって還元される。大学の授業に出たり課題をする時間は単位となって還元される。

一方、ひとり旅をしている時間。このときの時間は、完全に自分だけのものであるから、その時間で何が自分に還元されるのかは自分次第である。その還元されたなにかを実感できなかったり認識できないことで、不安になるのだと思う。いま3段ベットの上で仰向けになってる時間に、得られるものはあるのかと。。。

バックパッカーの末路?

ヒッピーという人たちをご存知だろうか。
私も詳しい定義は知らないが、要は社会の主幹の歯車からは外れて、のんびりと自由に放浪している人たち。

バックパッカーの人たちには非常にそうゆう人が多い。仕事を辞めて新しいものを探しに旅に出たとか、自身の空間に疲れて逃げてきたみたいなニュアンスの理由から始まり、旅の中で人生を見直しゆっくり味わっていたり、今を満足して過ごしている、あるいは先のまだ見ぬ景色や自分自身に希望を抱いている人たち。そういう人たちの目はどことなくキラキラしている。

けれど、なかにはそうした放浪や模索旅の末路みたいな旅人もいるのである。ぼさぼさの髪によれよれの半袖半パン、ぼんやりした目で現地の買い物袋を提げて煙草をふかしながら歩いている。国籍もぱっと見で検討がつかない。異国に半分浸かりきってしまって、ひっそりと彷徨っている人たち

こうゆう人たちは、私が現に感じる旅での無気力感に身を任せた姿なのかなと思っている。本来は旅に出た理由や目的があるはずなのに、旅がもたらす終わりのない自由の快感に浸ってしまった姿。
これが悪いことだと言っているのではない。旅は個人のものであり、私が誰かの旅につべこべ口を挟む権利は一切ないからだ。
けれども、私が個人的にそうした異国で半住民になって何をするわけでもなく、ひとりで彷徨っている旅人を見た時、ぞっとしてしまうのである。
だらだらと起きて町に出かけ、安い現地メシを食べ、ぼんやりと夜が来るまでぶらぶらして1日を過ごす自分が、彼らの姿と重なるからだ。

このぞっとする恐怖が、今回こういった投稿をするのを駆り立てた。
それは旅の自由の心地よさに流されておらず、この無気力感に反発したい、まだ慌ただしく駆け回りたい、という自身が旅に出た原動力の再自覚と戒めをするためである。

新学期の友、旅に出るわたし

私は大学生で、休学期間の1年という猶予を得た。非常に限られた時間である。
今回の旅で、自分は何人かの大学の友人とネパールで合流し、共にホーリー祭をお祝いした。彼女たちは旅で得たものを吸収し、しっかりと自分の成長に還元して帰国していった。例えばネパール前にアフリカに渡航した友は、その経験からローカルなフードビジネスに視点を置いて、次の学期はマーケティングに関連した授業を取るよー!って抱負を明かしてくれた。
みんなが次の履修の話で盛り上がっていたり、新学期に向けて日本に戻っていった姿を見て、すごく孤独感を感じた。自分は将来何がしたいのかもわからない。常になんかしたいと思う好奇心と、異国を巡るわくわく感を胸に旅に出たわけだが、果たして休学して旅に時間を費やす自身の選択は正しいのかと、不安になってしまうのである。旅してみて、何にも自身に還元されなかったらどうしようってね。

無気力になっている時間はない

そんな感じで常に模索、途方もなく広い世界を舞台に縮こまってしまう弱虫バックパッカーの私であるが、それでもこの休学期間の旅に期待を抱いているのは事実である。自由に旅ができるという自身の立場がものすごく恵まれていることをまず再認識しなければならない。こんな自由な時間の消費ができるのも特権である。
限られた自身の貯金による旅であるし、休学期間も残り半年。思い通りには行かず、何かが形となって還元されることもないのかも。
それでもやっぱり、やってみたいと思うんだからやってみるべき。やれるだけやって、自分なりの時間の使い方をしたんだって言い切りたい。ブログとかインスタ発信といった新しい挑戦も、し続けてみるべき。
こうやって書いてると、よし、この3段ベットとはおさらばして次の町に移動するぞ!って気力に繋がる
旅の自由に沼りきってはいけない、私はまだ人生のその段階にはおらず、できるだけ新しいものをみて吸収する段階であると思うから。
復学後のメジャー選択や、キャリアへの展開、またいずれは根っこを下ろして過ごすであろう時期になった自分が少しでも人間性で豊かであること。そういった希望を胸に、このやんわりした無気力とは常に戦っていきたいと思う。


以上、ちょっと長くなったが最近思っている思考解説でした。すごく個人的だし、半厨二病みたいでごめんなさい(笑)
何はともあれ、旅はとってもとっても刺激的です。
今後ネパールからインドへ移動しますので、まだまだ旅は続きます。

また呟きますので、よろしくお願いします。
ばいばいー⭐︎
(続)

ヒマラヤのふもとで20歳を迎える目標は
無事クリアしました🎂




この記事が参加している募集

自己紹介

新生活をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?