『母と私』
私には かなり年の離れた弟がいる。
なので 長い間 一人っ子だった。
昔の人は 「一人っ子はワガママだ」
なんて よく言ったもので
母は そう言われまいとして
私はかなり厳しく育てた。
その反面 とても愛情深い両親だったので
その厳しさを素直に受け止め
自分で言うのも何だが
周りの大人からは
大人しくて お利口さんねと言われながら育った。
お利口さん=頭が出来るではない
人の言うことをよく聞く子という お利口さん。
言い方は悪いけど
大人には都合のいい子どもだということだ。
ただ この 『人の言うことをよく聞く』は
母の中では 一方通行であってはダメで
常識的な行動が出来
自分をしっかりもって
発言しなければならない所では
きちんと自分の意見が述べられる
そこまで 求められた。
まぁ 私のお利口さんは
母の理想には程遠かったのである。
懇談会の度に決まって
「ユッコちゃんは とても良くできるのに
欲が無いです
でも きっといつか
その殻を脱いでくれると思います」
と 言われるのだそう。
確かに 目立つのが嫌で
みんなと一緒 それが 私には平和だった。
だが 母にとっては それではダメなのである。
母は上下に姉と妹の女きょうだいが居て
その2人が かなり自分の意見を主張し
また行動力のある人達だった。
母は真ん中に挟まり 言いたいことも言えず
何か言おうとしたら やり込められる。
長年 そんな風に育ってきたのである。
また 大人になっても それは続いた。
そして数年前 80歳を目の前にして
ある事をきっかけに
母は長年の思いが 爆発してしまい
自身のきょうだいとは
縁切りに近い状態になってしまった。
本人は 全然後悔してないそうだ。
やっと 言いたいことが言えて
スッキリしたのだとか。
話は逸れたが
母が自分の意見が言える人間にと言ったのは
今思えば こんな事があったからだったんだと
母の思いに少し同情する。
私が 初めて人前で意見を述べたのは
小学校5年の学級会の時のこと。
クラスに 色黒のゴボウのような見た目の
女の子がいた。
Yさんは とっても大人しいけど
見た目によらず
話をすると 面白い子で
お笑いが好きな子だった。
私が小学生の頃 今のような虐めはなく
どちらかと言えば 容姿などをからかう
その程度のものだった。
Yさんは 最初 ゴボウ ゴボウって言われ
そのうち お風呂に入らんから黒いとか
お風呂に入ってないから臭い
最後は 横を通るだけで
鼻をつまんで臭い臭いって
わんぱく男子共がからかった。
私は それがどうしても許せなくて
ある日の学級会
「何か議題はありますか?」
議長の問いかけに 意を決して
わんぱく男子のYさんへのからかいを提言した。
私にとっては
清水の舞台から飛び降りるようなもので
足は少し震え 声も震えていたように思う。
わりと強めの口調で
「そのような事があってはダメなのでは
人が傷つくこと
自分に置き換えて考えましょう」と述べた。
普段 穏やかな私が
ベールに包まれた自分を
さらけ出した瞬間だった。
クラスは静まり返り
しばらく なんの反応も無いまま時間は過ぎた。
いえ きっと 自分が発言した事をきっかけに
自分の中のマグマが活性化し
その事に自身が驚いていたからであろう。
パチパチパチ……
どこからともなく拍手が起こり
クラス中に 溢れんばかりの拍手の音。
おいおい アンタらがからかってたんだよ
わんぱく男子も一緒になって拍手をしている。
今思うと これが昭和の良いところなんだよなぁ。
その後 クラスでは多少のからかいはあったものの
笑って過ごせるような程度になり
卒業の際は ほとんどが地元の中学なのに
これが今生の別れとばかりに
みんなして 別れたくないと涙した。
その学級会での発言をきっかけに
新たな自分を見つけ 開花させていくのである。
母はこんな私に満足したのだろうか?
その後は私の根っこを触ることも無くなった。
色んな場所で根を生やしてきたが
どんな場所でも 私が意見を言うと静まり返る。
そして なぜか その方向に話がまとまる。
私としては この静けさが
とても嫌なのであるが
普段から 集団の中でうまく話に割り込めない。
話が終盤を迎え 意見が出尽くした頃に
ひょっと 隙間ができるのである
その時に私が発言するものだから
なんか それが答えのようになって
まとまってしまうのである。
それがどうも嫌で
特にうまく話に割り込めない自分が
嫌でたまらない。
大阪という土地柄 軽妙なテンポで
そのテンポ感についていけないのは
致命傷に近い。
そんな性格 きっと母に似ているのであろう。
ただ 穏やかな波を立てられる娘は
母にとって
なりたかった自分なのかもしれない。