私たちはどう死ぬのか。「ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと」を読んで
どうしてもブログで紹介したいのに、どう魅力を説明すればいいのか悩ましい本があった。
こちらだ。
とある個人書店で出会い、なにやら無性に惹かれ、ペラペラと立ち読みをしたらやっぱり無性に惹かれて買った本だった。
この本を購入した時にふと思ったのが「Amazonでこの本に出合うことはなかっただろうし、出合ったとしても買わなかっただろう」という感想。だけど書店で出合えたことに感謝するほどに面白い本だった。
そして読了後「めちゃくちゃ面白かったんだけど、この面白さをどう伝えたらいいんだろうか」と悩んだ。だけどこの本のタイトルからはまったくもって商売っ気を感じないし、おそらく出合うべき人のもとに届いていない気がする。(出合うべき人というのもよく分からないような本ではあるけれど)
なので、どうにか刺さる人に刺さればいいなという感じで、ここで紹介してみようと思う。
「死」について語りたかった
そもそも、私がこの本に直感的に反応したのは「死」というテーマにとても関心があるからだ。「死」は誰もが経験するにもかかわらず「経験」として語られることが絶対にない唯一のこと。
だけど「死」について語るのは一般的にはタブーとされている。
以前、お酒の場で「どんな死に方が理想か」という話になった(というか私が持ちかけた)。その時ひとりの男性が言った「雷に打たれて死にたい」というアンサーが今も忘れられない。
というのも雷に打たれるという発想しかり、その理由がかなり理にかなったものだったからだ。彼は3つ理由があると言った。ひとつはその確率で死ぬならもう仕方がないと納得できること。もうひとつは一瞬で死ねること。最後は、身近な人が1番悲しまず、誰も何も恨まず受け入れられそうな死因だからということだった。その答えが私には100点満点に見えて、つい「私もそれがいい!」と小さく叫んでしまった。
結局、その場で「死」について盛り上がったのはその彼と私のふたりで、他のメンバーからは「そんな縁起でもない話やめよう」とドン引きされてしまい、話題は別の方向へと変えられた。
読めばハマる、中毒書
私がこの本に直感的に惹かれたのは、そんな「死」がタブーとされることへのフラストレーションからきていたのかもしれない。
そしてその悩み(?)を解決してくれるかのように、本では「死」を土台とした様々な対談が繰り広げられる。病気や歴史、短歌やストレス、死因、文学など、その内容は多岐に渡るのだけど、終始トーンは、ポップでコミカル、ときにユーモラスだ。こんな軽快に語っちゃうの!と少し驚きつつ安堵しつつ、ああでもそうか、と思った。
本の語り手となるのは、著名な歌人である穂村弘さんと、精神科医で元産婦人科医の春日武彦さんだ。短歌の世界には「挽歌」という死者をいたむジャンルが存在しているし、医師は否が応でも死と向き合うのが仕事。きっとこのふたりだから、この軽さが実現できるのだろう。
たとえば自殺についてもこんな調子。
春日:穂村さんは、自殺って考えたことある?
穂村:まったくないなぁ。
春日:珍しいね。
穂村:え、考える方が多数派なの?
終始こんな感じ(笑)。「死」が、タブーではなく「好奇心を持って語っていいもの」として取り扱われるのだ。
そして軽快なトークの間間に挟まれるニコ・ニコルソンさんのイラストや漫画もかなり効いている。ふたりが部屋で会話しているのを猫が聞く耳を立てている、という設定で挟み込まれる漫画やイラストは、語りの面白さ、知的さに引き込まれながらも「人間ってこんなことばっか考えてて、やだねぇ」とどこか客観的に(生き物的に)させてくれる。
「死」を考えることは「生」を考えること
読みながらふと思い出した言葉があった。それは特攻隊兵の心情を綴った漫画「特攻の島」に書かれていた言葉だ。自分の命が兵器として使われることに向き合った主人公が「僕はなんのために死ぬのだろう」「僕の命はなんだったのだろう」と考えた末に出した答えである。
なんのために生きているか分からない人間は、なんのために死ぬのかが分からない。
この言葉を思い出し、ふと思ったことがある。本の中で語られていることは「死」というフィルターを通した「生」なのではないかということだ。
たとえば春日さんのこの話。
春日:さっき「死へのスタンス」という言葉が出たけど、そういうのって、意外と決まらねぇなと俺自身は思っていて。というのは、もうね、日によって違うんだよ。「誰にも知られずひっそり死にたい」と思ったその翌日には「ああ、劇的に死にてぇな」って変わってたりする。また別の日には「世の中に中指を突き立てて死にたい」くらい攻撃的な感じなのに、翌日には「妻が幸せでいられる形にしたい」みたいに急に殊勝なこと考え出したりして。
穂村:その日の気分で変わっちゃう。
春日:そうなの。「死んだ後にポルノ見つかったらやだなぁ」が「いや、死んだら関係ねぇよ」になったりして、全然一致しないんだよ(笑)。でも俺としては、その揺らぎこそが「文学」なんだと思ってるんだけどさ。
「その揺らぎこそが文学」という言葉にはっとした。日々、理想の死に方が変わるということは、日々理想の生き方が変わっているということで、それこそが「生きる」ということだ。
私はこの本を含め「揺らぎ」が言語化された文章に惹かれるし、それによって得た新しい感覚をもとに、自らもまた揺らぎ、文章を綴る。いつだってそうやって、自分という生を過ごしてきたじゃないか。そんな風に思いなおす機会にもなった。
ためになるかと言われたら、特にためにはならない本
もうそんな感じで、ためになるかと言われたら特にためにはならないけれど、なんか惹かれる。ずっと惹かれて、読み終えてしまう。そんな本だった。ちょっとした妖艶さを含んでいるというか、なんというか。
もしかしたら読書が好きすぎる故に、この奇妙さ、普通と違う感じに惹かれたということもあるのかもしれない。
ちなみになぜこのタイトルにしたのかは終わりの方に書かれていたので、そこから知りたい方は239ページから読んでみてください。
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