短編小説|喜怒◇楽

「あなたの余命は、あと四ヶ月です」


 あの日、医者からそう言われた時から、私はどこか夢心地だ。
 人はいつか死ぬ。だから常に後悔をしないよう努めてきた。後悔がないと言えば嘘になるが、それでも私はそこそこ有意義な人生を歩んできたと思う。

 だけど、一つだけ、心残りがあった。

 私が受け持つクラスに一人、大切な人達の死によって、感情を押し殺してしまった生徒がいる。
 私は、彼を救いたい。
 そう思い、私は、ノートに計画を書き留めた。

 
◇黒崎文香の最後の計画
1 感情を捨ててしまった生徒。大槻 暁(おおつき さとし)を美術部に入部させる
2 絵画を一ヶ月毎に一テーマ描かせる
 ① テーマ「怒り」
 ② テーマ「楽」
 ③ テーマ「喜び」
 ④ テーマ「哀」「自由」
3 感想を聞く、言う
4 感情に訴えかけ、彼の感情を取り戻す
5 本来の姿を取り戻した彼を見て、静かに息を引き取る

 そして、現在。計画は二まで進み、テーマ「喜び」を進行中だ。

 大槻と私の二人だけの部室。彼は真っ白なキャンバスに筆を向けたまま、キャンバスをじっと眺めている。あのどこか虚ろな瞳に、何が映し出されているのだろう? 一度、彼の頭を開いて覗き込んでみたい気持ちだ。

「相も変わらず、君は感情が読めないな」

「……別に。何も考えていませんよ。ただ、ぼーっとしているだけです」

 私が彼に話しかけると、彼はぶっきらぼうにそう言った。

「ほお? その割には、君が描く絵には、毎度感情がこもっているように思えるが? 一つ目のテーマの『怒り』では、君の前で土下座をする大人の女性を、二つ目のテーマの『楽』では君のお世話を大人の女性が笑顔で代用してくれる日常を描いた。あの絵画たちは、君という人物が何を思い、何を考えているのか、私に実にわかりやすく教えてくれたぞ?」


 そう。彼の描く絵には、彼の感情がよく込められていた。そして、彼の描いた作品を見た限りでは、『大人の女性』=『私』は彼にとって虐げたい存在であるようだ。
 なにか恨みごとでも買ったっけな?

 心当たりしかないのが残念だ。

「先生の勘違いでしょう」

 私の質問に対し、簡潔に答える大槻。相も変わらず低燃費だ。しかし、私も大人の女性だ。こんなことでは、追及を諦めたりはしない。


「ほー。あれが勘違いね? 仮に私の思いすぎでないとするならば、君は無意識のうちに私を描いたということになるわけだが。さては君、私のこと結構好きだろ?」

「逆ですよ。むしろ、うっとしいので描いてます」

 ……まぁいい。私を描いたと認めさせることはできたので及第点とする。

「君の毒舌は天下一品だな。やるじゃないか!」

「どこを褒めてるんですか」

 困ったような表情を浮かべる大槻。……うん。だいぶ感情が出せるようになってきたな。私の計画は順調に進んでいるようだ。
 私はそのことに満足すると、ポケットからたばこを出し、火をつけた。


「先生、たばこ、辞めたんじゃなかったんですか?」

「ああ。実はもう…………もう、喫煙に失敗したんだ」

 うっかり口を滑らしてしまいそうになり、慌てて言い直す私に、彼が驚いた顔を向ける。少し不自然だったろうか?

 ドキドキと胸が鳴る私に、彼が口を開く。

「それを言うなら『禁煙』でしょうに……」

「……あ、ほんとだ」

「……先生って、本当に国語の先生ですか?」

「失礼な! 私ほど立派な先生はそうはいないぞ! 国語マスターといっても過言ではない!」

「国語マスターという響きがもう既にダサいです」

 彼は天下の毒舌を私に浴びせると、ほんの少しだけ微笑んだ。私はそれをしっかりと目に焼き付けると、立ち上がる。

「さて、私はそろそろ職員室へ戻るとするよ。君はここで、部活が終わるまで絵を描いておくこと。なにか困ったことや相談があったら訪ねるといい。何か質問は?」

「ないです」

 私はその言葉を聞くと、美術室を後にする。無駄に広い室内で、大槻は1人、キャンバスに向き合っていた。


 * * *


 僕は昔、よく周りから「感情豊かだね」と言われてきた。

 だけど、今年の四月、両親と妹を交通事後で亡くしてから、僕は心を閉ざしてしまった。

 感情なんてものがあるから、辛くて、苦しいんだ。そう思った僕は、感情を殺してしまえば、この哀しみを忘れることができるんじゃないかと考えた。

 感情を殺すのは意外と難しくなかった。家族を天に見送った時に抱いた無気力感。あれを思い出すだけで良かったから。

 何も感じなれければ、喜びも、怒りも、楽しくもない。……だけど、哀しみだけは無くなってはくれなかった。

 そんなときだった。先生が僕に関わってきたのは。

 担任の美人な先生が、僕の腕を無理やり引っ張って美術室に連れ込んだ時は、まるで意味が分からなかった。

 いきなり美術部に入部させられ、『テーマ』を提示され、絵を描け! なんて、なんてむちゃくちゃな人なんだと思った。

 だけどそれを全部吹き飛ばすぐらい先生は破天荒で無茶苦茶だった。

 嫌味のつもりで描いた僕の絵に対して、「土下座の角度が甘い!」と言って実物を見せようとしてくるし、『楽』の絵を見ては、「献身具合が足りない!」と言って、僕の世話をしてこようとしたこともあった。

 そんな無茶苦茶な先生に振り回されるうちに、僕は徐々に感情を取り戻していた。

 先生は、僕が笑うと喜ぶ。そして僕も先生が笑ってくれるとなんだか嬉しくなる。……もしも、これを喜びだというのなら、僕にとっての喜びはきっと先生と笑いあう日々だ。

――テーマ「喜び」 隠し題名『笑い合う僕ら』


「なぁ大槻」

「なんです?」

「おまえ、やっぱり私のこと結構好きだろ?」

 先生に描いた絵を見せると、先生は真剣な面持ちで、しかしどこか嬉しそうな顔で僕にそう言った。

「気のせいですよ」

 と、僕は言う。先生は「どう見ても、これ私とおまえにしか見えないんだが」とブツブツと絵に語りかけている。

 これで「喜」は終わり。――次は恐らく「哀」だろう。

 次のテーマは気が進まない。なぜなら僕はまだ家族を失った哀しみを乗り越えることができていないから。

 向き合うのが怖い。

 僕は、どうにかテーマを変えらないかと恐る恐る訊ねる。


「あの、次の……」

「ああ、次のテーマは『自由』だ」

僕の言葉を最後まで聞かずに、先生は答える。

僕は思わず目を丸くする。

「……え? 自由? 『哀』じゃないんですか?」

「人間、誰にでも表現したくない感情の一つや二つあるだろう? 君にとって『哀』はきっと辛いテーマになる。部活なんだし、無理して描く必要はないんだ。次のテーマは君が描きたいと思うものを自由に書くといいさ」


 そう言った先生の言葉に、僕はこのとき、少しホッとしていた。

 ……だけど、僕は結局『哀』を描くこととなる。

 その日、先生が入院したと聞いて、僕は放課後、先生が入院している病院へ向かった。

 先生の部屋の前につくと、扉は開いていて、先生は身体を起こしていた。

 僕は扉を内側からノックする。

「……大槻」

「すみません。扉が開いてたので……」

 罰が悪そうにそう言うと、僕は踏み込んだら後には引けない言葉を口にする。

「先生……もう、長くないんですよね」

「何を言ってるんだ? 女性の身体は色々と複雑でね。これしきのことで死ぬほど柔じゃないさ」

「……」

 何も言えず立っている僕を、先生は優しい目で見つめると、微笑みながら言った。

「とりあえず、座らないか?」

 進められるがまま席についた僕は、そのまま下を向いてしまい黙っていた。しばらくの間、沈黙が続く。その沈黙を破ったのは先生だった。


「一つ、頼みがあるんだ」

 僕は顔を上げる。

「頼み?」

「……最後のテーマ、覚えているか?」

「『自由』ですよね」

「それを少し変えても良いだろうか?」

「自由ですし、いいんじゃありません?」

 僕はぶっきらぼうに答える。

「ふふふ。まぁそうふて腐れるな。なに、そんなに難しい頼みじゃないさ」

 先生はそう言って、一つ間をおく。そして、気持ちを決めたのか顔をぱっと上げると、

「……私を描いてくれないか?」

「……え?」

 思いがけないお願いに僕は思わず動揺してしまう。先生はそんな僕を見ると、喜々として笑った。

「なに、そんなに難しいことは要求しないさ。ただ単に、君が直接見て、描いた私というものを見てみたいだけさ」

 その美しい横顔が夕日に照らされる。

「……わかりました」

 僕は絵が描きやすい位置に椅子をずらすと、持ち込んだキャンバスを立てかけ、筆を手に執った。先生はそんな僕をずっと見つめていた。

「ああ、ちなみに、こんなにやつれてしまった私を描くのは禁止だ。君の記憶の中にある思い出のワンシーン元気でピチピチな私を想像して描いてくれ」

「……普通に難しいじゃないですか。こんなの先生を脳内で描いてきた僕じゃなきゃ、無理ですよ」

「おや、あの女性はやはり私だったのかい?」

「……チガイマス」

 苦し紛れに否定すると、先生はくつくつと笑う。墓穴を掘ってしまったみたいだ。

「なぁ、大槻」

「まだ何か?」

「……できるだけ綺麗に描いてくれよ。いつもの二倍増しで頼む」

「どこのもやしラーメンの注文ですか。僕は現物主義なのでお断りします。それに先生はそのままでも十分にお綺麗ですよ」

「ほお。よく私がもやしラーメンが好きだとわかったな。やるな大槻」

「……どこを褒めてるんですか」

 ああ、この空間が心地いい。

 先生の目を見るたびに、僕の中に温かなモノが流れ込んでくる。と、そのとき、僕の頬に一粒の涙が伝った。

 それを皮切りに、一つ、また一つと涙が溢れてくる。

「あれ、おかしいな。もう枯れ果てたと思っていたのに。なんで、いまさら……。くそ……、ぜんぜん、前が見えないや」

 気づけば僕の頬には涙の川ができていた。

 ああ……もう。せっかく気づかないふりをしていたのに、これじゃ台無しだ。だって、僕が泣いたらきっと、先生は哀しむから。僕は先生に笑っていて欲しかった。
なのに、

「先生。生きてよ、死なないでよ、生きて、僕のこと、ちゃんとみてて下さいよ」

 感情がとめどなく溢れてくる。先生を失う哀しさのあまり、そして愛おしく思うあまり、僕は歯止めが利かなかった。

「バカを言え。私はいつだって君を見てるさ。……だから、そんなに泣くんじゃない」

「だって、だって……」

「……まったく、どこで順序を間違えたんだろうな。三と四を飛ばしていきなり五に行ってしまったよ」

「……なに、……わけ分かんないことを、言ってるんですか」

「こっちの話さ。さぁ、顔を上げて。しっかり私を描くんだ」

「はい……はい……!」


 先生。僕が最後に描いたあなたの絵は、結局あなたに見せることはできなかったけれど、あなたのテーマにぴったりな絵画となりました。

 僕は今、美術の先生として、この高校に勤めています。先生のような、どんな人にも寄り添うことのできる人を目指して、日々頑張っています。


 そうそう、最後の絵の題名を言っていませんでしたね。

 その絵画の題名は――【喜怒◇楽】


 PS. ◇の部分には二つのあいを入れてください。

 ヒント「哀しみを知っているからこそ、描ける愛」

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