これで良かったのか人生の船出は?
今日は私の少し変わった人生の船出の話だ。
もう半世紀近く前になる。
昼は工場、夜はキャバレーで働いていた。
当時高度経済成長期が終わった後だったが、それでも大卒の初任給が8万円程度のころだ。
人は何を見てどう判断されるのか?
昼はどろどろになった作業服を着て働き、夜は赤いブレザーが制服だった。
今だから話せることも多い。
その当時は親戚にすら言えなかった。
もし話すと「そんな仕事はすぐにでもやめて真面目に働け」と言われるのが目に見えていたからだ。
もちろん親にも詳しくは話していない。
真っ黒に汚れた作業着の私に近付いて来た人は?
田舎で育った私は家から一番近い中核都市で就職した。
最初の会社を2年程度で退職して、次に働いたのが昼の工場と夜のキャバレーだった。
人生の船出を一度失敗して再挑戦といった時だ。
工場と言ってもその会社に勤めたのではない。
従業員はたった二人のその工場の下請け会社だ。
工場の従業員にはさせられないような仕事を下請けしている個人会社だ。
工場で作っているのは車のエンジンに使うワイヤーの入ったゴムホースだ。
その工場で出た不良品を焼却して金属と灰に分け、その灰を2トントラックで埋め立て地へ運ぶのが私の仕事だった。
作業服はいつも焼却時の灰で汚れていた。
朝7時半から午後4時半まで働いた後、急いで会社の風呂に入る。
会社には従業員用の大きくて綺麗な風呂があったが、私はその風呂を使うのを遠慮した。
工場敷地の隅の方にある掘っ立て小屋で、コンクリートだけで作られた小さい風呂に入った。
素人がコンクリートで作ったような浴槽に水を溜め、蒸気配管のバルブを開けるとすぐに湯が沸いた。
昼は焼却炉の横で給料引きの弁当を頂くが、その弁当とお茶は事務室へ取りに行っていた。
事務室に入って「すみません」と言っても誰も見向きもしない中、決まってひとりの女性事務員がお茶を入れ、弁当と一緒に渡してくれた。
できる限り近付かないように手を伸ばして「ありがとうございます」と言って受け取っていた。
私の服が汚いからだ。
誰も私に近付きたくないのは分からなくもない。
その女性事務員だけは嫌な顔もせず、いつも笑顔で接してくれた。
この会社で言葉を交わしたのはその女性と、定年退職後に再就職して働いている警備員のおじさん、そして唯一その会社の正社員だろう男性のひとりだ。
ある日、60代の警備員をしているおじさんが休憩している私に近付いてきてこう言った。
「辛抱して頑張れよ」
「やめずに続けていればきっといいことがあるから」
「わしのような年寄りでもこうして働いてるんだからな」
精一杯の言葉で励ましてくれたのだ。
おそらく私のことを家出少年とでも思っているのだろう。
私がどちらかというと童顔だったせいもあって思いっきり勘違いをしておられるのだ。
また違う日、昼に弁当を食べているとひとりの若い男性が来て話しかけてきた。
趣味などの普通の話をして笑ったりもした。
結局何百人か働いているこの工場で、友だちのように話をしたのはこの男性一人だけだった。
焼却の灰で真っ黒に汚れた作業服を着ているだけで、私に近付いてくる人はほとんどいなかった。
ホテルで行われた会議で…
下請け会社の社長は私にこう言った。
「世の中景気が良くなると汚い仕事をやる者はいなくなる」
「だから汚れ仕事をやるものはお金が儲かる」
「このことをよく覚えておくといい」
ある日、その社長が私のところに来て「すまんがわしの代わりに会議に行ってほしい」と言った。
午後3時○○ホテル最上階の会議室だ。
行けば分かるようにしておくから、この名刺を持ってネクタイを絞めて行ってくれ。
私の名刺の肩書は専務取締役となっていた。
受付を済ませ、会議室で車業界の今後に付いてのような難しい話しを聴くことになった。
会議が終わると隣の部屋へ案内された。
お皿の両側にナイフとフォークが数セット置かれ、椅子には名札が貼ってある。
私の横に座った50代くらいの紳士と名刺交換をした。
私が最初に勤めた会社が物販会社だったこともあり、名刺交換は慣れたものだ。
「その若さで専務取締役とは立派ですね」と何も知らないその紳士から話しかけられた。
その紳士は従業員500名程度の会社の社長だった。
紳士:「ゴルフはされますか」
私:「まだやったことがありません」
紳士:「じゃあ私が教えますよ」
紳士:「こう見えてゴルフだけは自信があるんですよ」
毎日どろどろになった服を着てヘ、リコプターを操縦しているかのような積載オーバーの2トントラックで埋め立て地を往復している私ではなかった。
ネクタイを絞めているだけで人は恐ろしいほど違う見方をするんだとこの時に知った。
キャバレーの仕事
私は子どもの頃から音楽が好きだった。
高校生の頃は吹奏楽部でトランペットを吹いていた。
最初の会社の先輩から夜の仕事を紹介して頂いた。
「キャバレーでトランペットの仕事があるらしいから行ってみたらどうだ」
そう聞いた私はその日の夕方そのキャバレーに行った。
裏口の従業員出入り口から入り、薄暗い廊下を通って行くと事務室らしい部屋があった。
「あの〜トランペットを募集されているようだったので来ました」というと、「それならもう少し奥へ行くとステージ横のバンド待合室があるからそっちに行って」と言われた。
言われる通りに行くと個性豊かな人たちがケースから楽器を取り出していた。
「あの〜トランペットを募集されているようだったので」と言うと、「楽器を持ってきてるんだったら今日からステージに上がってくれ」と言われた。
「先にタイムカードを打って」と言って渡されたカードには知らない人の名前が書いてあった。
バンマス:「今日から君は上田だ」
バンマス:「もし会社の人から上田って呼ばれたら返事をするように」
私:「あの~下の名前は?」
このキャバレーはダンスホールのような大型店で、生バンドで踊れる高級店だった。
足の付け根までスリットの入ったチャイナドレスを着たホステスも100人以上は登録されているらしい。
毎日ショータイムがあり、ドサ廻りの演歌歌手やダンサー、マジシャンなどが入れ替わりやってくる。
月に一回ビッグショーの日があり知名度のある歌手も来る。
一日4回ステージに上がり演奏する。
お客様が少ない一回目のステージは皆が好きなジャズっぽい曲で、2~3回目のステージはショータイムだからマネージャーが持ってきた楽譜を初見で演奏する。
お客様が酔った頃の最後のステージは踊れる曲だ。
チークダンスが踊れるスローな曲もよく演奏した。
水道もない部屋で暮らした日々
その頃私は、その昼の会社の倉庫の片隅にあった部屋で暮らしていた。
何にもない部屋だ。
水道もない。
家賃がただなので文句は言えない。
その倉庫は隣の家の裏庭に面していた。
優しそうな家族が暮らすその家のご主人に、裏庭にある散水用の縦水栓(水道)の使用許可を頂いていた。
朝起きると洗濯しすぎて擦り切れたボロボロの作業服に着替え、隣へ行って顔を洗い歯を磨いた。
夕方、昼の仕事から帰ってすぐに、今度はネクタイを締め、赤いブレザーを着てキャバレーに出勤する毎日だ。
その隣の家には高校生らしき女の子がいた。
たまに目が合ってお辞儀をすると、見ては行けないものを見たような顔をしてお辞儀を返してくれた。
好奇心旺盛な年頃の女の子が少し年上の私を見てどう思っているのか気になった。
たぶん親からは話をしないように言われているだろうと勝手に想像し、私もそれ以上近付かないよう心掛けた。
水道が使えなくなると困るからだ。
昼と夜は真逆の世界
夜の仕事も最初の挨拶は「おはようございます」だ。
私は朝と夕方「おはようございます」と挨拶していた。
キャバレーの仕事に就いたころ一番困ったのは仲間とのコミュニケーションだった。
まるで海外にでもいるように言葉が聞き取れなかった。
いわゆる業界用語だ。
「キノーボントロノチャンカ―二ゲーセンカリタ」
このような言葉が飛び交う中、私は早く覚えようと聞き耳を立てた。
しかし私には言葉を覚える才能はなく最後まで片言だったと記憶している。
ステージの周囲にはいくつもの照明があり、日常にはない華やかなショーを演出する毎日だ。
時には山本リンダや内藤やす子といった、私と同世代なら知らない人はいないであろう有名人も来店して歌った。
昼はボロボロの作業着で働き、夜はきらびやかなショーの世界で働いていた。
毎日繰り返されるそんな日々は私にとってシーソーにでもまたいでいるような暮らしだった。
きらびやかな夜があるから、人からどう見られようと平常心でいられる昼があると思えた。
つまり極端なほど真逆の世界が私の心を平均値へ戻してくれているように思えたのだ。
その頃の記憶を辿っても楽しいことしか思い出せない。
毎日が楽しくてしかたなかった。
誰もが私を避けて通るような昼の職場も安定した情緒で仕事ができた。
人は見た目で判断できるほど単純ではないと身をもって学んだのだ。
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