序; ものごとの始まり prologue; the beginning of everything
神戸に六甲山という、きっとこの季節にはもうそりゃ碧の映える美しい山があるのですが、そこに今はもう使われなくなった教会があります。
設計者は安藤忠雄さん。安藤さんは茨木の光の教会が有名ですが、それより少し前に建てられたとても静かな教会。
そこで展示をつくった時に、まるで彫刻作品のように組み上げられた(今はもう使われない)教会のベンチと、窓の外にひっそり動く映像作品の見える窓辺の椅子に一人の女性が腰掛けていたそう。おもむろにバッグから何かを取り出しひろげる女性。彼女の膝の上にひろげられたのは一冊の詩集で、彼女は日が暮れるまでそこにたたずみ一日をすごしていったそう。
そんな話を、展示の監視ボランティアスタッフから聞いた時に、これまでどんな大きな舞台で作品を見せて、多くの人に賞賛された時とも違う嬉しさがこみあげてきたんだよ。そんな場をもう一度つくってみたいんだ、どうだろうか?
そんなたわいもない雑談からすべてが始まったような気がします。
雑談の主はロンドンと金沢をベースに活躍するアーティストさわひらきさん。さわさんは同世代、というか同い年なので言わんとすることはすごくよく分かる気がして、なんていうか立場は違うのだけど心の底から共感したのを覚えています。
見る/見られるや見せる/見せられるの関係性に伴うなんともいえない責任みたいなやつ(これは見る側にもあって、例えば展示を見に行ったら何かを理解して帰らなくちゃいけないとか何かに感動しなくちゃいけないみたいな非言語的なオブセッションみたいなやつも含め)や、美術鑑賞における既存の装置としての様々な規定をとっぱらった環境での表現てどんなものなのだろう?時間的な制約(見にいったら帰らなくちゃならないとか)や環境的な制約(静かに決められた距離で見なければならないとか)とかの無い状況で、アートはどんな風に成立しえるのか。どんな価値を形成しうるのか。
そんなことを考えるアーティストの思考に触れ、そんな空間や時間の体験をぜひ見てみたい/つくってみたいと感じた私は、たしか翌日にはその候補地である街を訪れ、奇しくも同い年の古いビルの一室を見せてもらう手筈を整えました。
舞台はビルの3階4階のあわせて150㎡からなるスケルトン物件。
ここで何をやってみようか。そんな話をしていた時に『これまでのフィールドとは別の新しいフィールドで作品をつくってみたい』とさわさんが発した言葉の力で、プロジェクトは動き出したように思います。
でもこれまでの見せ方とはちがうやり方ってどんなものなのかなぁ。。
もやもや考えている内に、教会でふと見上げるとそこにある(being)ステンドグラスのビジュアルが浮かんできたのですが、それは教会を訪れる多くの人々の鑑賞の対象ではなくて、なんなら教会の建物の一部にすぎないのだけれど、その場で十字架(もしくは聖母子像などのイコン)に向かって祈るために圧倒的に必要な要素なわけで。そしてステンドグラスの存在を通して無意識的に光を感じ、時の流れを感じさせる装置でもあって、空間体験をある種の時間体験に変えてしまう魔法の装置なのかなと。
さわさんのつくる作品は、静謐な映像表現と、それを基軸にした空間インスタレーションとよばれる展示空間づくりが基本になるのですが、その空間体験自体を四次元的に拡張できたら面白いよね。そんな風に盛り上がったような気がします。
四次元とかいうとちょい派手?!もしくは昭和?!に聞こえますが、まぁ押しなべて言うなら、実際の展示空間をこえた空間が鑑賞者に知覚され、そこで過ごす実際の時間(個人的にはほんとは時間は伸び縮みすると思っているので物理的に一定の時間ていうのは無いとは思ってるのだけれど)を超えた長きにわたり作品を通した体験が鑑賞者になんらかの影響を与える、鑑賞者の何かを規定し”振付け”してしまうような表現を可能にするプロジェクトをやってみたい、そんな風に朧げな合意形成が為されたことが、ものごとの始まりだったのです。
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ここ敢えて断定してみましたが、そこはもう断定しないとすべてが曖昧になるので断定してみます。
で、どうやったらそんな風な見せ方が可能になるのだろうかと想いを巡らせる中で、建築の時間のなかに自分の作品をおいてみるのはどうだろうとさわさんが言いだし、あぁそれなら建築家と一緒に空間を作っていくのがいいよねと話が進み、数年前にタイのフェス(Wonderfruit というSDGsとかマインドフルを勝手に実装してる素敵すぎるラグジュアリーフェス)のお仕事で出会い仲良くなったABと一緒にやりたいよね、とお声かけして快諾いただいたというところで、なんとなくの座組が出来上がったのが夏頃だったように記憶してます。
ABはAB Rogersなので、あの高名なRichard Rogersの息子さん。
父親のポンピドゥの工業製品的/実用的なニュアンスと並外れた合理性は担保しつつ、そこに極めて今っぽいデザイン思考的な要素が加味され、しかし中心軸は並外れた想像力とキャビネットメーカーからの叩き上げであるというキャリアに支えられたモノづくり根性みたいなところにある非常にgiftedな建築家(というか表現者/アーティスト)。
一見正反対にも見えるアウトプットを生み出すABとさわさんの掛け合いを通して『建築の時間』と『アートの時間』、そして死によって規定される『人間の時間』みたいなやつが相まみえる怒涛の日々が繰り広げられることになるのですが、、こうして漸くthema1; 時間の結節 the meaning of bridging multiple diverse timeliness に入っていけそうです。
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