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【読書 歩く本】『歩くひと 完全版』谷口ジロー

普段、私はマンガをほとんど読みません。でも、好きな漫画家は何人かいて、その人たちの作品は繰り返し楽しんでいます。そのひとつが、谷口ジローさんの『歩くひと』です。

『歩くひと』は、元々1990~1991年に月刊のマンガ誌に連載されました。私は何年か前にこの漫画のことを知り、一読してすっかり谷口さんのファンになりました。

ランニングやハイキングが好きな自分にとって、特段の目的もなくただ歩くことをテーマにした漫画というのは「えっ!?そんなのがあるんだ」と衝撃的でした。そして実際に読んでみて、ごく普通に見えるおじさんがどこというわけでもない場所を歩く様子が丹念に描かれている、という内容にまた驚きました。

この漫画には、セリフがあまり出てきません。ですが、描きこまれた絵や登場人物の何気ない表情が、静かにいろいろなことを語りかけてきます。主人公が、ふと見かけた昔風のおもちゃ屋で紙風船を買うところや、子供たちが引っ掛けてしまった模型飛行機を取るために裸足になって木に登り、そのまま枝に背中を預けて街の景色を眺める場面などが、私はとても好きです。

一見、おとなしい平凡なおじさんに見える主人公は、実は好奇心が強く、周囲の目を気にするよりも自分の気持ちを優先して行動する人でもあります。そんな場面がしばしば出てくるのがまた魅力的です。

上でリンクを紹介した「完全版」は、2020年の発行です。PR文にある「初の全エピソード収録&カラーページ再現」というところが「完全版」とされる理由のようです。また、コミック誌への連載時、谷口さんは読者に向けた近況報告のような短文も書いていたようで、この完全版は付属の小冊子にその文章も収録しています。最終話で谷口さんはこんなことを書かれていました。引用します。

季節の移ろいを感じつつ、見たり、さわったり、拾ったりしながら歩く。そんな楽しみが伝わったらよかったなと思っています。また、いつか、どこかの小道で会いましょう。

『歩くひと』はまさに、景色や季節が実体感を持ってじんわりと紙面から立ちのぼってくるような作品です。

完全版でもうひとつ興味深かったのが、巻末に掲載されている、フランス向けの書き下ろしエピソードです。フランスのコミック誌に2001年に書き下ろされた「川を遡る」、そしてルイヴィトンがフランスで刊行した東京のガイドブックに書き下ろした数ページの短い作品です。

どちらも、フランス語訳される前の日本語のネームが入っているのですが、日本で掲載された「本家」には出ていない「主人公の心の声」が半分以上のコマで文字表記されています。「静かだ・・・月並みだがとても閑静な住宅地だ。」「この川は一体どこから流れてきているのだろう。」といったように。

素人の勝手な推測ですが、これは、日本人の読者であれば絵の様子から感じ取れるであろうことが、フランスの読者にはそのままでは通じないだろうという判断がどこかでなされて、そうした文字情報を入れようということになったのでしょうか。

『歩くひと』は漫画ですが、テレビや映画のドキュメンタリーでは、「日本ではナレーションが多用されるのに対し欧米ではあまり使われない」ということがよく言われます。私は、トレイルランやロングハイクなどをテーマにした英語の映像作品を、言葉がわからないところは聞き飛ばしながら時々YouTubeで見ますが、やはりナレーションがないものが多いです。日本で、たとえばテレビドキュメンタリーの『情熱大陸』にとって窪田等さんのナレーションが、葉加瀬太郎さんのバイオリンと同じぐらい重要な役割を果たしているのとは対照的です。

私が見るランニングの動画では、ナレーションのかわりに、主人公のランナーやその友人、家族などの声がインタビューとは違う場面(例えばランニングの大会中や練習のシーンなど)で流れ、ストーリーを進行させていきます。言わば「心の声」です。

そうしたドキュメンタリーの映像作品と同様、フランス向けに描かれた『歩くひと』は、「ナレーションは入れないけれど主人公の「心の声」は必要」という流儀に基づいて描かれたのでしょうか。だとしたら、この手法は欧米(と一括りにして良いのかわかりませんが)では、紙や映像といったメディアの違いをまたいで広く前提とされているものなのかもしれません。

全く的外れのことを書いている可能性も十分にありますが、そんなことを思いながら『歩くひと』のフランス向けエピソードを読みました。こうしたものも含めて掲載する「完全版」が発行されたのは、とてもうれしいことです。


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