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【子育て】子育ては親の「犠牲」のもとに成り立つのか?♯113

先日、とある大学の授業に呼んでいただき、「仕事と子育て」について、自身の体験を伝える機会をいただいた。その際、学生さんから沢山の質問をいただき、皆、積極的に自身の子育てやキャリアに対して考えている様子に感心した。

その際、こんな質問をもらった。
「子育てをされていることで、様々なことを犠牲にされていると思うのですが、それについてどのように感じていらっしゃいますか?」と。

私は「犠牲」という言葉に反応してしまった。
改めて辞書で調べると、
犠牲とは、「ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげること」らしい。
学生さんは、私たち子育て世代が子育てのために何かを「犠牲にしていること」を前提に質問していたが、実際、自分はそうなのだろうか、と考えてしまった。
確かに、20代の頃、私も同じように感じていた。
"結婚すると、全力で仕事に取り組めなくなる"
"子育てと仕事はトレードオフ"
漠然と、家庭を持つことは、何かを犠牲にすることだと思っていた。
また、子どもが生まれてからの1年ちょっとは、これまで不自由なくできたことができなくなり、それがストレスに感じることもあった。
(例えば、電車に乗ることすら、いつ子供が泣きだすかわからないハラハラ、ドキドキではじめは移動すら億劫になっていた・・・)
特に、1年の間に、妊娠、出産、転職、夫の転勤帯同、休職が重なったときは、自分がコントロールできないライフイベントや、「母、妻はこうするべき」という周囲の価値観、そして自分自身が働き続けることを諦めざるをえなかった悔しさで、理不尽さを感じることもあった。

ただ、今、母になって9年目。
ずっと自分は「子どものために何かを犠牲にしつづけてきた」と思って過ごしてきたのだろうか?と振り返ると、そういうわけではない。
確かに、大好きだった飲み会にも行かなくなった。
趣味の一人旅もしばらくしていない。
ただ、それは自分の中で「犠牲」という言葉で表現するものか、ということだ。
つまり、自分は子どもが生まれて9年半、「自分が子育て以外にも大切にしていることはしっかりやってきた」という認識なのだ。
飲み会には行かなくなったが、大事な友人とは昼間に会ったり、子連れで会ったりしている。どうしても行きたい飲み会は、夫に子供を見てもらって行くし、友人と母子旅行に出かけ、子どもが寝た後に、飲んだことだってある。
そして趣味だった一人旅も最近はしていない。ただ、子連れで日本一周、そして海外25か国を旅しているので、旅そのものを諦めたわけではない。
また、一旦、夫の転勤帯同が続いたことで、諦めた仕事だが、転勤帯同先で、いろいろな活動、ボランティアをやってみて、自分が欲しかった、社会の居場所は得られたし、その活動が今の仕事にも繋がっている。また子供が寝ている時間を活用して、学び直しも継続的にできている。

つまり、子どもが産まれても、本当に自分がやりたいこと、大切にしたいことは、出産前と異なる形でやっている。
また、その前段として、「自分にとって今、本当に大切なこと」を選びとれるようになったことは間違いない。そのふるいに落ちたことは、犠牲にしたことではなく、ただ単に「今、自分にとって、それほど大切ではないこと」だ。

もし、子育てによって「あれもこれも犠牲にした」と後悔や怒りを覚えるくらいなら、もし、それが「犠牲」という言葉を使うほど、自分にとって大事なことであれば、諦めず、やってみることを私自身はおススメしたい。
ただ、いろんな事情で簡単にできない人も多いと思う。そうであれば、やり方を変えたり、支援先を探してみたり、両立させることの方法を探ってみて、それでも、難しければ、時期を変えて挑戦することも考えてみたらよいと思う。

学生さんからの質問で、自分自身にとっても思わぬ気づきが得られた。
有難い機会を得られたことに感謝!

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