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三浦綾子初代秘書として生きて - はじめに

はじめに

ことし2022年は三浦綾子さん生誕100年だという。「だという」とは妙かもしれないが、私の中には今も、溌剌はつらつと語り、目を輝かせて取材する綾子さんがいて「100年」とは信じ難いのだ。

いたずら好きで、生き生きしていた綾子さん

その姿は五十代の綾子さんだったり、六十代の綾子さんだったりする。私の娘たちを馴染みの「みどり寿司」(この名前は綾子さんの著書の中にも出てくる)に連れて行ってくれて、「孫です」と嬉しそうに言っていた綾子さん。店の方々は、お孫さんは居ないはず・・・と目を白黒させておられた。いたずらが好きで、生き生きした人だった。ある時は、小学生だった娘たちが塗り絵をしているところに仲間入りし、コミック『Dr.スランプアラレちゃん』のガッちゃんのパンツを星柄に変えたり、髪を紫に塗ったり、と一番楽しんでいたのが綾子さんだった。これらは綾子さんが60歳くらいで、私が30代半ばのころ。40年近く経った今でもこの配色を鮮明に覚えている娘と「綾子おばちゃんの奇抜さは衝撃的だったね」と語り合っている。

だが、綾子さんが召されてからもう23年もの月日が流れた。1999年3月1日に、二代目の秘書八柳洋子さんが肺がんで召天し、急遽手伝いに駆けつけて三浦綾子秘書に復帰したのは私が50歳のときだった。同じ年の10月12日に綾子さんが召天。私は今度は夫の三浦光世さんの秘書となり、光世さんへの講演依頼を取りまとめ、数百の出張に同行して、貴重な体験をさせていただいた。その光世さんも90歳で召天して、既に七年が過ぎた。確かに、100年なのだ。

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私の自宅で見つけた50歳前後の綾子さんと光世さん。自宅の前で。

「死ぬという大切な仕事が残されている」と綾子さんが言っていた頃の、その年令に私がなった


私も、73歳になった。6年前に「上顎歯肉じょうがくしにくがん」(うわあごの歯肉のがん)の大手術をし、人工の上顎うわあごの骨を使って生きている。綾子さんが「私には死ぬという大切な仕事が残されている」と言っていた頃の、その年令を、私は今、生かされて生きている。

綾子さんが今の私くらいの年齢で書いていた本は自伝の『命ある限り』『明日をうたう - 命ある限り』(共に角川書店)や、日記形式の『夕映えの旅人』(日本基督教団出版局)、最後の長編小説となった『銃口』(小学館)などだった。これらの大作を、綾子さんは命を削るようにして書き上げた。『銃口』を書き上げたとき、綾子さんは「書きたいことはたくさんあるけれど、書く身体がもうない」と義理の姉に言ったという。神と人、戦争と昭和を描いた『銃口』は三浦文学の集大成であり、綾子さんの遺言でもあると思う。

当時綾子さんは幻覚が見えるようになっていて「庭に暴漢が幾人もいて、銃を構えているから気をつけて!」と言ったり「私の横に男が立っている」と言うことまであったそうだ。当時の綾子さんの様子は、光世さんが『明日をうたう - 命ある限り』のあとがきに詳細に書いている。外出中、来客中、食事中など思わぬ時に心臓発作を起こすこともあったし、寝床から自力で立てず、時には一晩に六回も七回も介助を要したとの事。私も三浦家を訪問した折に「裕子ちゃん、誰かに付けられなかったかい?気をつけるんだよ。」とか「ホラ、その陰からこっちを狙っているよ。」と言われ、どんなに怖い不安な幻覚の中に綾子さんは居るのか、と心が痛んだ。

「裕子ちゃん私の跡継ぎしてね」と繰り返し言われて


私は、綾子さんの召天後、綾子さんを思いながら既に2冊の単行本を書かせていただいた。『三浦家の居間で 三浦綾子ーその生き方にふれて』(いのちのことば社)『神様に用いられた人三浦綾子』(教文館)の2冊だ。その時点での、心を込めた私の精一杯だったが、2冊目から15年が経ち、生誕100年を迎えようとした今、少々焦っている。まだ書き得ていなかったこと、改めて気づいたこと、新たな出会い等、書くべきことが様々にあることに気付かされ、綾子さんが最後の作品群を書いた年齢を今生きているという現実、上顎歯肉癌じょうがくしにくがんという難しい病を通して命の時間について思うことが多くなった故である。綾子さんと親しかった人々が次々に天に召されて、証言の必要性を思う故でもある。

綾子さんには「裕子ちゃん私の跡継ぎしてね」と繰り返し言われてきた。駄目ですとか、嫌ですとは言わなかったが、心の中では「そんな力、私にはないよ」と、呟いていた。しかし、私なりに、折々に何かしらは書いて、チャレンジはしていた。教育雑誌『ベルママン』(小学館)の我が家の家庭教育コーナーとか、『主婦の友』(主婦の友社)など雑誌の原稿募集が目に付くと、それらに次々応募していた。今その応募原稿を見ると、なんとみかん箱いっぱい分ほどある。私なりに懸命に跡継ぎの道を模索していたのだ。小説は書けなくとも、綾子さんたちの生き様を語り伝える … それも「跡継ぎ」になるのではないかと今、思っている。

私の目線からは見えない、計り知れない凄さを持った方たちだったので、書いた翌日にはまた新たな綾子さん・光世さんの生き様に気づいて書ききれなかった!と思うかもしれない。それでも、そんな人生の先輩の近くに居られたことを感謝しながら、書き続けてみたい。読んでくださる方が、綾子さん光世さんが遺した愛のメッセージを受け取ってくださることを切に願いつつ。

宮嶋裕子

このエッセイシリーズは、三浦綾子初代秘書の宮嶋裕子が、2022年4月の三浦綾子生誕100年に向けて、綾子さんと光世さんのメッセージを多くの方に届けたいと考えて書き始めたものです。#創作大賞2022 にも応募しています。引き続きエッセイを書き続けて行きます。以下のリンクから、是非他の投稿も御覧ください。

https://note.com/yuko_miyajima/n/nfac73f59f8c1


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