この家を私物化しないように - (三浦綾子初代秘書として生きて - 4)
綾子さんは著書の中に、実名で沢山の人々の事を書いた。
24歳から36歳という実に13年もの間、肺結核・|脊椎《せきつい》カリエスという重い病の日々を過ごした過ごした綾子さんは、自ら社会に出て人々と出会うことは難しかった。しかし、出会った人がまた、人を紹介してくれて、病床の綾子さんには豊かな人間関係が生まれていた。夫の光世さんも、その紹介の中で出会った人で有り、後に伝記小説に書いた『愛の鬼才』(新潮社)の主人公西村久蔵さん、『夕あり朝あり』(新潮社)の主人公五十嵐健治さんも紹介で出会った人であった。
私も、幾度も実名で書かれて「載って居たね」と度々声をかけられたものだった。書かれて困ることは殆ど無かったが、慌ててしまった記述もあった。
この家を私物化しないように
その一つが「上棟式の祈り」についてだった。私が秘書になって半年位たって、綾子さんは家を建てることになった。ベストセラー作家になっても、自分たちのためにお金を使うことがほぼなかった光世さん綾子さんは、寄付したり、誰かを助けてばかりいて、自分たちはお風呂の無い家に住んでいたのだ。冬は氷点下20℃以下に何回もなる寒い旭川に、大病を経験した弱い体で暮らしていたのに。
だがやっと、作家になって七年後お風呂の有る家を建てる事になり、上棟式の日が来た。私は綾子さんが「裕子ちゃん、お祈りして」と絶対に言うだろうな、と思っていた。クリスチャンである光世さんと綾子さんが主催する集まりでは必ずお祈りの時間がある。まだ23歳と若かった私は、上棟式に出た経験がなく、どんなことを祈ればよいのか全く分からなかった。。心の中で繰り返し『神様、上棟式にふさわしい祈りの言葉を示してください』と祈りながら、式の準備をしていた。果たして、綾子さんは「裕子ちゃん、お祈りしてね」と言った。
その時、私の口から出たのは「神様、どうか、この家を私物化して用いることが有りませんように」という祈りだった。今考えれば、なんと差し出がましい、生意気な秘書なのだろうと思う。本来家は、私生活の場である。若い、秘書になって一年にもならない私が、雇い主の上棟式でそんなことを祈るなんて。綾子さんは、その日は何も言わなかったと思うが、記憶には無い。
五年後綾子さんは、エッセーに「この祈りは、実のところ、わたしたちを驚かせた」と書き、更に、「考えて見るとキリスト者※は、自分の命を私物化してはならない。-中略ーこの家も、御心※に叶った使い方をしなくてはならないということになる。改めて、良い祈りをして貰ったと、二人で話し合ったことだった」と書いたのだった。※キリスト教の信仰のもとに生きる人、の意味 ※神の意図、の意味
今回の写真は、このエピソードからずっと後、1984年に、アメリカはカリフォルニア州のサンタクララという街で撮影されたものだ。この後に書く、辻本牧師とお会いしたサンタクララ・ホーリネス教会にて。
綾子さんが『ちいろば先生物語』(集英社)取材の為に、この教会を訪問した時、偶然にも私の夫が、出張でアメリカに行っており、この教会を訪問していたのだ。日本ですら偶然会うとは想像できないのに、この日、光世さん綾子さんと夫はサンタクララで会った。頼まれて講壇に立った綾子さんは、彼の日の祈りの事を語り、私のことを「素晴らしい秘書だ」と褒めて下さったと、帰国した夫から聞いた。
「言葉を与えて下さい」と祈って与えられた祈りなのに、日々の暮らしの中で慌しさに追われ、忘れるとも無く忘れていたが、この上棟式の情景は、今でも鮮明に思い出せる。
我が家を提供し、学童保育をはじめた
綾子さんに本に書いて頂いたことで、この言葉が自分たちの家を建てる時の祈りにもなった。
自分たちの家を建てた一年後、長女の小学校の入学説明会があった。私はその日、校門のあたりで、学童保育を作りたいと懸命に奔走して居る女性に出会った。彼女は当時は珍しいフルタイムで働く母親だった。未だ世の中では学童保育と言う言葉も、余り知られていなかったころだった為、学童保育ができるような場所も、学童保育を引き受ける働き手も見つからず、憔悴して居た。その姿を見て、私は我が家を提供し、自分自身が働き手となる事を決断した。32歳の時だった。綾子さんは当初は、人の命を預かるというのは責任が重いし「何かあったら、あなたの子供たちはどうなると思うの」と、きっぱりと反対した。しかし、私が学童保育を始めると直ぐ『祝学童保育開設』との多額の御祝儀が届いた。「ご心配頂いたのに、逆らって御免なさい」と言うと「裕子ちゃんは、反対しても必ず始めるだろうと思って居たよ」と言われたのだった。
他の子と同じように愛せない
その学童保育を始めて数年。私は、ひとりの学童に出会った。私はこの子に、どうしても、皆と同じ様に向き合えなかった。平等に対応しようとしても、愛しきれない悩みの中で私は悩みを訴える手紙を綾子さんに書いた。「神様が、この子を隣に置くよ、と私の側に置いてくれた子だと分かってはいるのだが、他の子と同じように愛せない」と訴える手紙を。しかし、綾子さんは最近、元秘書から手紙が届いた、神様が隣に置くよと置いてくださった人を愛したい、という手紙だった、なんと素晴らしい!と、エッセーに書かれてしまったのだ!綾子さんは、愛せない私ではなく、愛したいと悩み、愛そうと願う私を見て下さったのだ。
かくして、私は、素晴らしい祈りの人、素晴らしい愛の人ということになってしまった。綾子さんが亡くなってから、三浦綾子が遺したもの、というテーマで色々な所に講演で行く様になったが、実名で書かれているので、出会う方に何度も「あなたが、あの素晴らしいお祈りをなさった方ですか!どうしてあのような祈りが出来たのですか?どうしてあのような手紙が書けたのですか?」と聞かれ、焦っている。
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