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予想のつかない台詞がいっぱいだった綾子さんとの会話 (三浦綾子初代秘書として生きて - 2)

綾子さんは、こちらが全く予想できないような言葉を発する人だった。それは綾子さんの言葉選びの才能故だったのかもしれないし、悪戯っ子のような性格が故だったのかもしれないし、相手への愛の故だったのかもしれない。

夫のことを愛しているかい?

「ところで、アンタ、夫のことを愛しているかい?」と、突然綾子さんに聞かれたことがある。綾子さんと電話で話していた時のことだ。私は一瞬止まってしまったあと、まず夫婦仲の良い綾子さん達を思い、次に私の幸せを常に祈っていてくださることを思い、これは愛していると返答するしかない、と思った。日々の暮らしのなかでは色々な出来事があり、単純に“愛している”と言い切るのは難しいと思いながらも「愛しているよ」と答えると、綾子さんは瞬時に言った。

「アンタ、今一寸ちょっと、間があったよね、それで良い!!」と。

綾子さんはきっと、「愛しているかい?」「ハイ!愛しています」と間髪入れずに応えられる程、日々の暮らしの中では、人と人とが愛し合うことは簡単ではない、一寸ちょっとの間の中にこそ真実がある、と言いたかったのだろうと私は思った。

1980年5月、綾子さんは帯状疱疹のため旭川医科大学附属病院に入院。 体調を心配した伊豆大島の相沢良一牧師が食事療法と休養を勧め大島に招いて下さった。 綾子さんは私が見たことのないリラックスした表情をしている。(撮影:相沢明)
同じく伊豆大島の旅から。綾子さん58歳、光世さん56歳(撮影:相沢明)

三浦綾子の見納め

1982年にも、忘れられないやり取りがあった。この年の5月21日、綾子さんは直腸癌の手術をした。綾子さん60歳の誕生日(4月25日)から一月。還暦を祝うはずの年だった。

今は、癌の治療も様々に進歩しているが。 40年前は癌と聞くと死をイメージすることの多い時代であったと思う。事実、綾子さんは手術前夜、二通の遺書を書いたと自伝にある。幸いなことに、人工肛門の必要もなく、6月上旬、旭川赤十字病院を退院した。

夫の光世さんは、その喜びを短歌に詠んだ。

癌の手術終えて二十日の妻に添い

 歩み行くアカシアの花白き下

当時、綾子さんは六つの月刊誌の連載を抱えていた。退院して少し落ち着いた頃から、多くの編集者がお見舞いに訪れるようになったらしい。綾子さんは編集者から愛される作家であったから、その時連載していなかった出版社の方々もお見えになったに違いない。

私もこの年の夏、お見舞としてではなく春先から予定して約束しての訪問だったのだが、子連れで、旭川の三浦家を訪問した。様々な話のなかで綾子さんは「今年の夏はネ、三浦綾子の見納めだと思って、随分たくさんの編集者が顔を見に来たんだよ」と話した。別れ際、綾子さんはこんな事を言いだした。

「裕子ちゃんも、今日が見納めかもね。」

見納めという言葉に驚いた私が「エッ!!」と、硬直し、綾子さんの顔を見ると「アンタのね」と綾子さんは言った。

「も~っ!!」と泣きそうになりながら私は、思わず綾子さんのお尻をパンと叩いてしまった。綾子さんは満足そうに、例の悪戯っ子のような笑顔を見せた。

頭が良いって事は、怖いことなんだよ

綾子さんは、こちらが自然に心を開いてしまうような語りかけをする人だった。「膝を崩して下さい」とか「ご自由に」と言葉で言うのではなく、相手が自然に膝を崩してしまうような、そういう語り方だった。

三浦家から歩いて2,3分の所にある教会に、新たな牧師が赴任され、三浦夫妻に挨拶に来られたことがある。二階の書斎から降りて来た綾子さんは会うなり「マァ!素敵な御夫妻ね」と言った。緊張していた牧師は、一寸緊張が解け「有名な方なので緊張しています」と答えた。すると綾子さんは直ぐに「有名だというのは、下らない事ですよ。ところで先生は何がお好きですか?」と聞いた。「自然が好きです」と答えた牧師に、綾子さんが言った台詞は「私も自然と人が大好きです。何たって、私は人を喰って生きていますから」だった。笑いが生まれ、一気に緊張がほぐれ、楽しい語らいの時になった、とこの牧師が後に思い出を語って下さった。

長女にも綾子さんとの忘れられないやり取りがあるという。それは彼女が社会人一年目の、就職したての頃の会話で、私は長女と一緒に三浦家を訪問していた。

赤ちゃんの時から孫のように可愛がってくださった長女がついに就職。綾子さんは会社はどう?仕事はどう?と聞いてくださった。娘は「皆さん、頭の良い方ばかりで…」と、答えた。就職した会社に切れ味の良い先輩たちがたくさんいることと、その環境で働けることの楽しさを夢中で話し、とにかく皆さん頭が良くて、と繰り返し言う娘を綾子さんは静かに見つめ、一言「みぎわちゃん、頭が良いって事は、怖いことなんだよ」と言ったそうだ。

それがどういう意味なのか、くどくどと説明するようなことはなく、ただ一言「それは怖いことなんだよ」と言う綾子さんの真剣さを見て、娘は、綾子さんの自伝『道ありき』(新潮社)に書かれた逸話を思い出したという。第二次世界大戦後に、子どもたちに教科書を開かせて墨を塗らせなければいけなかった綾子さん。「間違いを犯す人にならないで、と言っている気がしたよ。自分のことを頭が良いと思っていたエリートたちが率先して世の中を狂わせた時代の中を、実際に苦しみながら生き抜いた綾子おばちゃんだからこそ、ああ言ってくださったんだと思う。」と、娘は言う。この訪問から20年ほど経過した今でも深く感謝しているそうだ。


綾子さんとのやりとりは、一生忘れられないものばかりだ。「見納めかもね」と言う言葉も、彼の日から40年、幾度思い返したことだろう。この40年の間に沢山の人々に出会って来たが、初めての出会いであっても、それがただ一度の出会いとなり、見納めとなったことも事実あった。その方々に、一番最後の言葉として私が語りかけた言葉は、一体何だっただろう、、、。36歳の日に聞いた言葉は、今も『裕子ちゃん、真実に人と向き合って居るかい?見納めかもしれないんだよ』と、語りかけ続けている。

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