秘書になったわけ - (三浦綾子初代秘書として生きて 6)
私は今迄、幾度となく「どうして三浦綾子さんの秘書になったのですか?」と質問されてきた。そのたび、精いっぱい思うところを話してきたが、今回、これが根底にあったのだ!と気付いた事がある。
秘書になる時、試験があった訳でもなく「秘書として働いて貰えますか?」と言われたわけでもなかったから、自分でも本当の理由は、分かっていなかった。
あなたは わたくしの秘書、に「エ〜〜〜???」
「綾子さん、何か手伝うことが有ったら、手伝うよ」と言い「じゃあ、裕子ちゃん手伝ってくれるかい」「良いよ」そんな気軽な(気楽な)やり取りで、私は三浦家に通い始めた。綾子さんは、人の長所を見つける褒め名人だから、三浦家で働くのは、地上の天国にいる様だった。楽しい日々だったし、私は言いたい事を遠慮なく言い、新米なのによく、あのような提言をしたものだと自分で呆れるほど、自由に語り、言われた仕事は何でもやった。失敗を恐れることは、全くいらなかったから。
7か月経ったとき、身分証明書が必要な事があって、お願いすると「はい、分かりました。」と言って光世さんが書いて下さったのは『あなたは わたくしの秘書として勤務していることを証明します。著述業 三浦綾子』と言うものだった。エ~~!私、秘書だったの??と驚いた二階の綾子さんの書斎での時間、あの時は忘れられない。
思春期の悩みの日々に
小学校の五年生の頃から、私は「人は何故、生きなければならないのか?」と思い悩むようになっていた。生きる意味が分からなくなった中学二年生の冬休みが終わった時教会に行く事をきめた。隣に住んでいた、光世さんのお母さんに、以前から繰り返し「裕子ちゃん、教会に行かんかい」と勧められていた事が、決意をうながした。当時は未だ自家用車など殆んどなかった時代、光世さんのお兄さんが会社のトラックの助手席に私を乗せて旭川六条教会に送って下さった。受付の女性に「初めてだから宜しく」と声をかけて、お兄さんは帰って行った。光世さん綾子さんの通って居た教会である。大きな教会で、その頃は、お二人と言葉を交わしたことは無かった。綾子さんが作家になる前の事である。因みに、綾子さんが作家デビューしたのは、私が高校一年生の七月の事だった。
私はいつしか、子供たちに喜びを与えることの出来る、幼稚園の先生になりたいと思う様になっていた。我が家は貧しく、母からは、高校を卒業したら働いて貰わないと困ると言われていたので、私は自力で保育科に行こうと決心して、アルバイトを始めた。
定時制高校の給食の皿洗い、家庭教師を二軒、週に七回。修学旅行の積立預金は、修学旅行への参加を諦めて代わりに保育科の学費させてほしいと母に頼んで資金に加えた。やっと入学金と前期分の学費の準備が出来た三年生の一月、札幌の夜間の保育科の願書を取り寄せて驚愕した。すべての費用が約二倍になっていたのだ。就職希望のクラスメートは皆、就職先が決まって居た時期だった。全国各地の大学で、学費が高騰して学園紛争が起きていた1960年代半ばの事だった。私は、泣く泣く地元の小さな会社に就職した。経理事務の仕事だった。この頃、本当の意味で光世さん綾子さんと出会うことになる。
会うと必ず「無事に帰れます様に」と祈って下さって居た
経理の事務員は一人だけだった。当時、給料は現金払いで、給料日は一人で銀行に社員全員分の給料の為のお金をおろしに行った。小さな会社だったが、今の金額にすると300万円前後だったような記憶が有る。その銀行で三浦夫妻に度々出会った。未だ、秘書が居なかったころで、二人は何時も一緒に銀行に来ていた。
銀行で会うと、二人は必ず「お元気ですか?気を付けて帰って下さいね」と声を掛けて下さった。これは、秘書になってから聞いたのだが、私に会うと必ず「無事に帰れます様に」と祈って下さっていたのだという。
私は只々毎日『此処では無い、人生をかけて働くのは此処では無い』と思っていた。やがて、どうしても夢を捨てがたくなりもう一度、学費を準備して、保育科に行く事を決めた。会社には、申し訳ない事だったが、次の年に進学した。
保育科受験に必須の音楽の試験の為には、平日は教科書に付いている紙の鍵盤で練習して、日曜日に教会のピアノを借りて、何とかバイエルの60番位まで弾けるようになっていた。
学校は東京だった。上京を前に、教会でこれからの事を話す機会が有った。そこに光世さん綾子さんがいた。「経済的には、十分な備えは出来ていませんが、道は開かれると信じて参ります」と語るのを聞いて下さって居た。次の日曜日、礼拝の後で「お餞別」と書いた熨斗袋を頂いた。中には、一か月分の寮費と同額のお金が入って居た。丁度一か月分で有ることに驚き、道は開かれると、具体的に励まされる出来事だった。だが、これは序章で有った。
二夏の出来事
学校が夏休みになり、旭川に帰省した時、綾子さんに、「家事の手伝いをして居る姪御さんに夏休みをあげたいので、泊まり込みで手伝いに来てほしい」と頼まれた。願ってもみなかったアルバイト、私は喜んで三浦家に行った。我が家は、母が働きに出ていた為、私は小学校六年の時から夕食作りを一人でしていたので、不安は無かった。その手伝いは翌年の夏にも続いて頼まれた。
アルバイト代は驚く程高額だった。私の学びを助けようと思っていて下さる事が、痛いほど判った。その後、卒業して東京の幼稚園で働いた私だが、夢半ばにして幼稚園を退職せざるを得なくなり、退職後旭川に戻った。私は次の仕事が決まるまで、何か必要が有れば、というつもりで冒頭にも書いた「綾子さん、何か手伝うことが有ったら、手伝うよ」という台詞を言った。家事手伝いの姪御さんのお手伝いをすこし、位のつもりであった。
そこからは本当に冒頭の通りで、綾子さんの返答もじゃあ手伝ってくれるかい、という軽いお返事で、私は「良いよ」と言ってお手伝いに行ったら7ヶ月後に自分の肩書きが秘書であったことを知ったのだ。
修学旅行に行けなかった光世さん綾子さん
最近読んだ『結婚について考える 三浦綾子 新しい鍵』(光文社文庫)に、光世さんも綾子さんも修学旅行に行けなかった事が書いてあった。これは、そのことを詠んだ光世さんの短歌である。
光世さんは、三歳でお父さんと死別し貧しい開拓農家の祖父に預けられて育ち、進学も諦めざるを得なかった。そんな生活を詠んだ短歌も二首。
綾子さんは女学校に入学は出来たものの、やはり修学旅行には行けなかった。そのことが、この本に書かれていた。
ここで、綾子さんは、父は忘れたようなふりをした、とも書いている。綾子さんのお父さんは高給取りだったが、綾子さんは十人兄弟だったので、家計は大変だったのかもしれないと想像する。お兄さんもお姉さんも誰一人修学旅行には行っていなかったという。女学校の学費も期日には間に合わず、お父さんがいつも直接、都合がついた日に事務室に届けていたそうで、一度も自分では集金袋を持って行かなかった綾子さんを、級友は特待生だと思って居たらしい。
その様な、光世さん綾子さんだからこそ、学費を自分で準備して進学する私を応援し、お金を渡すのではなく働かせてくださって、その日々が有ったからこそ、秘書としての仕事に繋がったのだと気が付いたのだった。
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