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文学史に残るより、誰かを救うことの出来る作品を - (三浦綾子初代秘書として生きて - 5)

綾子さんが天に召された後も、綾子さんがたくさんの方のお名前を実名で本の中に取り上げた故に、書かれた人と読者の間には多くのうるわしい交流が生まれた。

綾子さんが実名で書いた人の中から、今回私は、辻本清臣牧師を御紹介したい。

辻本先生は、綾子さんが心底敬愛していた榎本保郎牧師が主人公の『ちいろば先生物語』(集英社)に登場する方である。私がご紹介したいのは、辻本先生が長くアメリカに居られた為、お会いした方が少ないのではないかと思ったのが理由の一つ。もう一つには、綾子さんに、作家としての使命を深く再確認させる励ましの言葉を送った人であるから。更に、私も又、辻本先生に励ましを頂いた一人なのだ。

『ちいろば先生物語』の榎本牧師の最期の時を支えたのが辻本先生

綾子さんが『ちいろば先生物語』を書き始めたのは1986年、主人公の榎本牧師が亡くなられて七年後であった。1984年5月、執筆を前に綾子さんはロスアンゼルスに取材に行った。その折、現地で取材の手伝いをして下さり、実に肌理きめ細やかな配慮をして下さったのが、辻本先生だった。例えば、榎本牧師が入院していた病院に案内する時は、距離を確認できるような道筋を、選び車を走らせてくださったり、入院した初めの病室や、榎本牧師が亡くなった部屋なども取材できるように奔走されたという。

詳しくは『ちいろば先生物語』を是非お読みいただきたいのだが、その中にあるように、榎本牧師は医師に「安静にしていなければ命の保証はない」と言われる程の体調だった時に、ブラジル、カナダ、北米へ伝道の旅に出かけた。くり返し祈る中で「神様からの召しだ」と感じ、出かけたのだが、しかしロスに向かう飛行機の中で吐血し、十五日後、ロスの病院で亡くなられた。この時空港に迎えに行ったのが辻本先生で、急変を知って病院に駆け付け、榎本和子夫人に寄り添い、通訳し、日本への連絡、日本から来る人々の宿や食事等、諸々を懇ろねんごろに配慮し、口スの教会員や先生のご夫人と一緒に榎本牧師の最期の時を支えたのが、辻本先生だった。

辻本先生の(奔走する)様子が、私には目に見えるようだ。私も辻本先生に、お会いしていたので。夫の長期出張で、家族でアメリカのカルフォルニア州サンノゼに引っ越した1975年夏、その時出席した教会の牧師が辻本先生であった。

夫の長期出張でサンノゼに住んでいた頃の写真。おそらく1975年。左が私で、右に写っている赤ちゃんは長女。


一ヶ月半で先生はロサンゼルスに転任された為、サンノゼでお会いできたのはわずかな期間だったが、心に沁みる説教と優しい心遣いは忘れられなかった。ディズニーランドに行った時は、ロスの先生の家に泊めて頂いたりもした。

その辻本先生から「ハローお元気ですか」と電話を頂いたのは1977年暮れ。第三子の妊娠が判明した数日後の事だった。私は喜びより、出産で入院する時に、やっと4才と2才になる娘達をどうしたらよいのかで悩み、眠れぬ日々を過ごしていた。夫は忙しく、休暇が取れない日々だった。親の助けは得られる状況にはなく「預かるよ」と言っていた人達にはいざ、となると次々断られてもいた。そんな話をすると、先生は即座に言われた。「祈りましょう!祈りますよ!命を与えて下さった神様が助け手を与えて下さらないはずがありません。安心していらっしゃい!」と。

その直後、心から信頼している友人が「私で良ければ手伝うよ」と言ってくれた。様々な条件を考えると頼めないだろうと思って居た相手だった。願ってもない最良の助けだった。私は感謝と喜びを込めて、生まれた娘に、恵みが結実するという意味で「恵実」と名付けた。

綾子さんが、作家としての使命を再確認した励ましの言葉

綾子さんは、1976年秋にカナダ、アメリカで講演をする約束をしていた。しかし、同年の春先、先方の準備がほとんど整った頃に心臓の具合が悪化し、講演の旅は中止を余儀なくされた。『明日をうたう-命ある限り』には「この事に対する申し訳のなさは、今に至るまで消すことができず、思い出す度に胸が痛んでならない」と書かれている。

そんな綾子さんの元に、主催者側のアメリカ、ロサンゼルスの辻本先生から手紙が届いた。「当方としても残念ですが何よりも、体を大切にして下さい。書くという神から与えられた使命を第一義にして、回復に努力して欲しいと思います」と。

綾子さんは「この言葉は大きな希望となり力となった。どんなに慰められたことであろう。何という光栄であろう。よし、私は後に来る人々に伝えるべきことを、『命ある限り』書き続けて死のうと思った」」と書いている。

「文学史に残るより、誰かを救うことの出来る作品を」


綾子さんは「文学史に残るより、誰かを救うことの出来る作品を」といつも願っていた。「裕子ちゃん、講演はその場で聞いた人にしか届かないけど、書いたものは死んでからも残るもんね」と三浦家の居間で、いつも言って居た綾子さん。その作品は今も、人々に読み継がれ、小説は映画化され、『塩狩峠』(新潮社)や『氷点』は、出版社の「夏の100冊」に選ばれたり、各地の学校で夏休みの課題図書になっている。娘たちの学校でも、よく課題図書になっていたし、孫の代になっても、選ばれている。読書感想文コンクールの入賞作品でも綾子さんの作品をよく見かける。綾子さん、きっと綾子さんが想像していたよりも、ずっと長く、綾子さんの言葉は遺り続けていますよ、と私は何度も思っている。

最近読んだ綾子さんの晩年の日記形式のエッセー『夕映えの旅人』(日本基督教団出版局)から晩年の作家生活の様子が見えてくる。

綾子さんはパーキンソン病による幻覚幻聴以外にも、寝返りが打てず、ずれた布団を戻せず、布団から起き上がれず、毎晩夜中に何度も光世さんを起こして介助して貰った事など、赤裸々に書いている。又「今年初めて入浴。実に三か月と二十日余り入浴出来ずにいたことになる」等とも。そんな中、口述筆記が順調に進んだ日なのだろうか?「夕方思い立って、北美瑛の丘へタクシーで行く。美しく晴れた風景を見て思わず口から『わたし読者のためにも頑張るわ』と言葉が出た。この自分の言葉に、われながら力づけられる。三浦も帰るまで『元気づけられた』と喜んで繰り返し言う」ともある。この様な中で『命ある限り』『明日をうたうー命ある限り』は、書かれていたのだ。

これらの自伝を読んでいると「文学史に残るより、誰かを救うことの出来る作品を」と願っていた綾子さんの姿が胸に迫って来る。綾子さんが実名で人々を登場させたのは、ひとりひとりとの出会いへの感謝の思い故だったのかもしれない。又、綾子さんには、実名で書くことで、更に、このような素晴らしい出会いが紡がれていくことまで、見えていたのかもしれない、とも思う。

「命ある限り」書こう、と決断し、書き残された作品は、生きて働き、今も人々に勇気と希望と喜びを与えてくれている。


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