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嘘つきって、想像力豊かだっていうことでしょう (三浦綾子初代秘書として生きて - 3)

三浦家での昼食は最高の時間だった。小さなカウンターのようなテーブルで向かい合って、家事を任されている姪御さんの作った食事を一緒に頂く、いわば|賄『夕あり朝あり』い付きであった。

講演先でこの話をすると、「同じものを食べたのですか?」と質問されることがあったが、勿論同じ食事。光世さん綾子さんは決して自分達だけが美味しいものを食べるような人ではなかった。むしろ美味しいものを食べさせてあげたいと思ってくださる人であった。食事は、準備した姪御さんも席について、必ず光世さんが感謝の祈りをして、四人で一緒に食べ始めた。12時に食べ始め、1時までゆっくり、色々な出来事を語り合う幸せな時間だった。

綾子さんは取材や講演の旅先で出会った人の事、見てきた事をよく聞かせて下さった。時には次の、小説の粗筋も話してくれて、「裕子ちゃん、どう?面白いと思うかい?」と聞いてくれたこともあった。私の人生の大きな支えとなる言葉も数々あった。その中のひとつが

「裕子ちゃん、人の短所は見方を変えると長所になると思わんかい?だってさ、嘘つきって想像力豊かだっていうことでしょう」

という言葉だった。この言葉はしっかりと心に残り、子育ての時も日々の暮らしの中でも励ましとなった。

綾子さんは見事な大嘘つき?

想像力豊か、は、逆に言えば大嘘つき。ならば綾子さんは見事な大嘘つきと言えるだろう。

代表作の一つと言える長編歴史小説『海嶺』(角川文庫)は、江戸末期千石船が嵐に遭遇して14カ月漂流した史実を描いた作品だ。読んでいると情景が在り在りと見えてくる。

綾子さんはいつ漂流したのだろう…どこから船乗り達を見ていたのだろうと思わされ、時には私も船に一緒に居るかのように感じられる臨場感があった。綾子さんは「奇想天外さよりも真実に近く、人を励ますことの出来る作品を」と願い、そのために綿密な取材をしたので、想像の世界も生き生きと広がったのだと思うが、「綾子さん、漂流していないよね」と、確かに嘘つきと?思って見たりする。

この「嘘つきは想像力豊か」との言葉が、私の子育てを支えることになるとは、当時は思ってもみなかった。

実はなんと三女が『嘘つき』だったのだ。三女の名誉の為に言っておくが…今は嘘つきではないので、ご安心を。日本には嘘吐きは泥棒のはじまりという諺があるが、否否いやいや「想像力豊か」と自分に言いきかせながら、三女と向き合った。子供時代なので、たわい無い嘘だったが、嘘に気づいても焦らずに済んだのは綾子さんの言葉のおかげだった。

久々に旭川に帰省した折りに三浦家の応接間(和室)で 1987年8月10日。前列左から、光世さん、綾子さん、若き日の私。後列は娘たちで、長女、次女、三女の順だ。スマートフォンを知らないこの時代の子どもたちは今の子どもたちのように写りを気にして笑顔を作ったりしなかったので、光世さん綾子さんに会えた嬉しさが写真に写しとられていないのが面白い。

三女が小学校6年生の時に読書感想文コンクール全国大会の優秀賞に選ばれた。私はこの時、まるで綾子さんの「嘘つきは想像力豊か」が立証されたようだ、と思った。まだ小学生なのに、三女の感想文は第二次世界大戦時の人々の気持ちや世の中のありさまを深く想像し、洞察した内容だったのだ。私は子供の勉強を見ない(教えない)親だったので、娘が感想文を書いたことすら知らなかった。三女は自分ですべてを考え、想像し、この感想文を書いたのだ。

中学2年のときには、彼女が書いた詩が娘の学校の校歌になった。生徒たちだけでなく、大人からの応募もあったのに、全校生徒と教職員で投票して選んだ結果、彼女の詩が選ばれたと聞いてもびっくりしないほど、素晴らしい歌詞だった。三女が中学校に入るとき生徒数が急増し、新設された学校には校歌が無く、このようなことになったらしい。

残念なことに三女は執筆活動はしていないのだが、この想像力の豊かさは日々の生活の中のあちこちに活き活きと存在している。接客業の仕事現場では、顧客の注文したものをそのまま提供するのではなく、常に想像力を使ってサービスを提供するのでどの店でも、いつも人気店員になる。子どもたちの誕生日に作るケーキやごちそうは毎回とても凝っていて、家族が皆、大喜びしている。

因みに幼い頃の嘘つき、いや、想像力が豊かだった三女は、自分は以前はうさぎだったと思い込んでいたらしく、保育園で「私はね、うさぎだったんだよ!」と言っていたらしい。

安売り広告チェックから経営者に。忘れ物王は作曲家に。

次女も個性的な子どもだった。ある時から、このしっかりものの次女の趣味は新聞の折込チラシを隅から隅までチェックしてセール品をチェックすること、になった。ママ、今日は◯◯スーパーでXXの安売りの日だから、買いに行くといいよ、とお薦めを教えてくれるのは助かるのだが、私が少しでも高い値段で買い物をして帰ると、今日は△△スーパーに行けばもっと安く買えたのに・・・と叱られることもあった。金銭感覚に敏感だった彼女は今、経営者になり、その才能を遺憾いかんなく発揮している。

次女は看護師だったが、30歳で退職し、これからの日本には良い教育が必要だ、と志を持って幼稚園の経営者になった。その後自然豊かな大きな園庭が付いた園舎を立て、大勢の子どもたちが通うバイリンガルの幼稚園と学童保育を経営している。私は三浦綾子秘書になる前は幼稚園教諭だったのだが、思うところあって夢半ばにして辞職した経験がある。まさかあの次女がこんなに素晴らしい幼稚園の経営者になるとは、あの頃は夢にも思わなかった。

長女は忘れ物が本当に多い子だった。小学校の担任の先生が何とか忘れ物をなくそうと工夫なさって、教室の前の壁に忘れ物表(?)を貼り出した。忘れ物をした生徒は、その表に赤くて目立つシールを貼らなければいけないルールで、シールが増えるのを恥ずかしく思って、生徒が忘れ物をしなくなるだろう、と先生は考えたらしい。ところが長女は断トツに数多く忘れ物をし続け、長女だけ表の紙に貼るところが無くなって、壁にまでシールが並ぶようになり、先生は諦めて紙を剥がしたらしい。先生は「妹(しっかりものの次女)は全く忘れ物をしないのに、お姉さんなのに、あなたは何で忘れ物ばっかりするの!!」と叱ったらしいが、比べられて直るものではない。

綾子さんのおかげで、私は、短所は長所と思いながら長女を見ることができた。理解力は大丈夫、記憶力も大丈夫…観察をしていると、集中力が凄いことに気がついた。“これ”と思うと周りのことを忘れてしまう…小学校4〜5年生だっただろうか?ある日「ただいま-!!」と元気に学校から帰ってきた長女の背中にランドセルがなかった。「お帰り。ランドセルは?」と聞くと、何と忘れて来ていたのだった。その日学校で、何か素敵なことがあって「早く帰ってママに話そう」と思って一目散に帰って来たらしい。忘れ物で、先生にご迷惑をおかけしたと思うし、友人達に助けてもらったとも思う。できる限り注意もしたが、この集中力故の忘れることは、多分一生変わらないと思った。

長女は、駅のベンチに定期券を忘れたり、モノレールの荷棚に鞄を忘れたりしたこともあった。ある時、娘に言った。「多分、一生忘れ物をしないで生きてゆけないでしょう。助けてくださる友達がいてくださるような生き方をして、受けた愛を繋ぐ人生を歩んでね」と。幼稚園で将来の夢を質問された時に“作曲家”と答えて、先生に首を傾げられたと言っていたが、長女は今、ニューヨークで作曲家、音楽家として生きている。集中力と愛を繋ぐ力がなければ、就けなかった職業だと言って良いだろう。相変わらず忘れ物をしないかしらと、気にならなくはないが、それも又、良しと思っている。

温かな言葉のシャワーの中で自分を取り戻した私

今、思い返せば、綾子さんにもそんな一面があった。取材でタクシーに乗って出かけた綾子さん、車の中でスカートのウエスト回りが苦しくなったらしく、ホックを外して楽にしていた。目的地に着いた時、きっと何かにまた集中していたのだろう、急に車を降りた綾子さんはすっかりホックの事を忘れ、足元にストンとスカートが落ちてしまった。丁度、道路工事の人々が道端で休んでいる目の前でスカートが落ちたものだから、大騒ぎになったそうだ。

綾子さんが亡くなった後、綾子さんのお姉さんの御夫君にお会いしたが「綾子さんは、人の良いところを見つけることに懸命な人でした」と言っておられたのが、非常に印象的だった。

短所は見方を変えると長所になるとの考えを、私は自分にも応用した。私はおしゃべりなのではなく、話題が豊富で、出しゃばりではなく、意欲的なのだと心の中で言い換えた。劣等感が強く、落ち込みが激しかった若い私は、光世さん綾子さんからの温かな言葉のシャワーの中で、だんだんに自分を取り戻していった。このブログを書くことで、読んでくださる皆さんも、自分の短所を長所に変えて見られるようになってくだされば、と願っている。

旭川六条教会にて礼拝後に。1987年8月9日。左から、私の夫、長女、三女、次女、綾子さん、光世さん。撮影したのが私だったか。


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