この出会いがなければ『塩狩峠』は、生まれなかった (三浦綾子初代秘書として生きて - 8)
『塩狩峠』は、発行部数約300万部と言うミリオンセラーで、綾子さんの作品の中でも『氷点』に次ぐ代表作だ。映画にもなり、尚且つ、世界13の国の言葉に訳されてもいる。
この小説は、明治時代の史実を基にして書かれた。急勾配の峠で連結器が外れて逆走してしまった列車を、国鉄職員だった長野政雄さんという方が、線路に身を投じて列車を止め、乗客の命を救ったお話だ。
先日は、『塩狩峠』を読んで、もっと三浦綾子さんの作品を学びたいと、アメリカから来た青年に出会った。カナダで、映画『塩狩峠』を見てクリスチャンになり、更に牧師になったと言う方にも山形県でお会いした。又、自殺を思い留まったと話してくださった方もある。その様な人々の事例は、枚挙にいとまがない。この『塩狩峠』は、綾子さんの作品の中で最も、読んだ人々の人生を変えた作品といえるだろう。
『塩狩峠』の主人公「永野信夫」のモデルとなった実在の人物長野政雄さんが、塩狩峠で犠牲の死を遂げたのは1909年2月28日の事だった。この日を覚えて、今回は「この出会いがなければ『塩狩峠』は、生まれなかった」と題して裏話を書いてみる。
長野政雄さんは、綾子さん光世さん夫妻が通っていた旭川六条教会(当時の名称は旭川基督教会)に1902年から通っていた。だが、上述の事故があったのは、綾子さんも光世さんも生まれる前の事でもあり、2人にとっては全く知らないことであった。
『塩狩峠』主人公のモデルを直接知る藤原さんと綾子さんの出会いは「クレーム」。
時は、綾子さんが小説家になる前に遡る。
綾子さんは朝日新聞社のコンテストで優勝し、『氷点』で作家デビューした。朝日新聞社では、当初入選発表を1964年春に予定していたが、応募数が余りにも多く選考に時間が掛かり、先の『氷点』の回で書いたように、発表が遅れ7月10日になった。
『氷点』の入選発表から約1ヶ月前、1964年6月の日曜日、おそらく第一週のこと。
綾子さん光世さんご夫婦が通っていた旭川六条教会近くの常磐公園で、教会の集まりが有った。(くどいようだが、入選発表が遅れたので、この日、綾子さんは集会に出られたのだった)会の後半には小さなグループに分かれて話し合いが有り、綾子さんはグループの司会を任された。そこには、見慣れない高齢の男性が参加していた。よく話をなさる方で、司会役の綾子さんは、皆さんに話をして頂く為に、苦労したようであった。
三浦綾子といいう、あの婦人はいったい何者ですか!
何と、集まりが有った次の日曜日、牧師の所に、かの高齢の男性から抗議の手紙が届いた。
「三浦綾子といいう、あの婦人はいったい何者ですか。一々私の話に口をはさみ、話を遮り、不愉快でなりません。今後一切、同席を御免こうむりたい!」と書かれていた。実は、この男性が『塩狩峠』主人公のモデルとなった実在の人物「長野政雄さん」の直属の部下だったのだ。
お名前は「藤原栄吉さん」。藤原栄吉さんはこの年の4月に旭川に転居されたばかりだった。旭川の国鉄病院の院長に就任したご子息と共に引っ越しされ、旭川六条教会に通い始めたばかりであった。出席者が多い教会であったし、藤原さんは80代、綾子さん42歳と年齢も離れていた為、教会の中では未だ、顔を合わせていなかったと思われる。
牧師から「こんな手紙が来ています。読んで見て下さい。」と言われ、綾子さんは慌てた。
「同席は、御免こうむりたい」とは、今後教会にお出でにならないと言う事か?それ程までに不快な思いをさせてしまったのか - 綾子さんは牧師に同行をお願いして直ぐに、藤原さんのお宅にお詫びに行った。始めはなかなか話に応じて頂けなかった様だが、ひたすら詫びる綾子さんの姿を見て、藤原さんは部屋に通して下さった。
その、藤原さんの部屋には文机があり、原稿が積み重ねられていた。
綾子さんは「藤原さん、何か書いて居られるのですか?と尋ねた。(多分、「氷点」が一次審査で25編の中に、選ばれた頃の事と思う。綾子さんは原稿が有るということが、いつも以上に気になったのでは無いだろうか?)
藤原さんは、生き生きと目を輝かせて、明治42年に亡くなった元上司の長野政雄さんの事を、書いているのだと語った。この出会いの5年前(1959年)に旭川六条教会に籍を移し、まだ教会の歴史に詳しく無かった綾子さんは、自分が通う教会に素晴らしい先輩が居たことに感動し、帰宅の途に就いた。
後に綾子さんは、藤原さんのこの原稿を見せて貰い、更に詳しく話を聴いて『塩狩峠』を書いたのだ。
もし長野政雄さんと藤原栄吉さんが上司と部下として出会っていなければ、もし藤原栄吉さんと綾子さんが公園の集まりで出会っていなければ、もし綾子さんが全員が話せるように気を遣ったりせず、藤原さんが怒ったり手紙を書いたりされていなければ…さまざまな「もし◯◯でなければ」が頭に浮かび、奇跡が重なって『塩狩峠』が生まれたことへの感謝を改めて思う。
光世さんが旭川六条教会に残り、それが出会いに繋がった。
奇跡はもう一つある。
実は光世さんには、旭川六条教会へ移籍する前に通っていた別の教会があった。もし光世さん・綾子さんが元の教会にとどまり、旭川六条教会へ移籍していなければ、藤原さんと出会えなかった可能性も、あったわけだ。
光世さんと綾子さんが出会うより二年も前のこと。光世さんの職場の同僚が教会に行ってみたいと言ったそうだ。光世さんは、職場に近い教会が良いだろうと考え、当時自分が通っていた別の教会ではなく旭川六条教会へ同僚を連れて行った。
このあと光世さんは元の教会に戻っても良かったはずなのに、戻らず、旭川六条教会に通い続けた。その理由は「牧師夫人に勧められて、青年たちの集まりにも参加するようになったから」と聴いていたが、私はあまり合点がいっていなかった。
光世さんが旭川六条教会にとどまりたくなった理由が腑《ふ》に落ちたのは、このとき旭川六条教会の牧師だった常田二郎牧師の人柄を知った時だった。
なんともいえない優しい笑顔の常田牧師
綾子さんが最後の入院をした病院で、私は常田二郎牧師にお会いするチャンスに恵まれた。
光世さんが「初代秘書の宮嶋裕子です」と紹介して下さると、常田牧師は終わりまで聞かないうちに喜んで立ち上がって「あ~~あなたが宮嶋さんですか!」と、握手して下さった。何とも言えない優しい笑顔だった。二度目に常田牧師にお会いしたのは、綾子さんの告別式の時。弔辞で常田牧師は「さようなら綾子さん!今しばらくのお別れです。と言って賛美歌の465番を朗々と歌われた。また逢う日まで、また逢う日まで」と。
「あ~~あなたが」という声の中に、そして「今しばらくのお別れです」という弔辞の中に、私は、光世さんが旭川六条教会に居着いてしまった理由を見たのだった。
光世さんとの出会いについては、「三浦綾子全集第20巻の月報19」(主婦の友社)で、常田二郎牧師ご本人による文章を読むことが出来る。
「光世さんはミスターブレーキ。綾子さんはミセスアクセル」と評した宣教師がいたほど、控え目で行動を抑える人であった光世さん。そんな光世さんが、牧師に留任してもらうための運動を先頭に立って率いていくとは、私には信じ難い話だった。だが、この話は、2003年発行の「旭川六条教会創立100周年記念誌」にも、他の方が書いておられて、相当な運動を展開したことを知って驚いた。
常田牧師の内側から滲み出る愛、一瞬にして相手を包み込んでしまう愛で、光世さんもきっと包み込まれ、そのまま旭川六条教会に留まることになったのだろう。
神様は、この人と、この人を出会わせようと思ったら、どんな手だてを尽くしても会わせて下さる
『塩狩峠』は、奇跡の出会いに満ち満ちて、うまれた。綾子さんは、CD「ガリラヤの風かおる丘で」(いのちのことば社)の中に「神様は、この人と、この人を出会わせようと思ったら、どんな手だてを尽くしても会わせて下さると思うの」という言葉を残している。その言葉が形になったのが正に『塩狩峠』だったのだ。
*光世さん綾子さんの自宅だった建物は、現在塩狩峠記念館として保存されており、観光地として訪問することができます。画像をクリックすると自治体による案内ページに飛ぶようにリンクを貼りましたので、どうぞご利用ください。
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