見出し画像

生きる──どんなにひどい世界でも【心に残った言葉】

『生きる──どんなにひどい世界でも』  茂木 健一郎 (著), 長谷川 博一 (著)
がとても名著で響く言葉がたくさんあったので一部を紹介します。

勘違いしている人も多いのですが、何かを頑張ったり結果を出したから自分はすごいというのは、パフォーマンスに対する「自己評価」。「自己受容」は、できてもできなくても無条件にそれで良しとすること。無条件性が大事なんです。

(自己受容性が高い人って、脳ではどう説明できるのですか?)
自分自身を客観的にどれくらい見られるかということですよね。つまり、脳の中で、自分が実際にどういう人であるかということと、どういう人でありたいかという願望とのズレがあればあるほど、本人は苦しむ。それが一致すればするほど、自己受容に近づく。要するに、前頭前野を中心とするメタ認知の働きに関係しています。
※メタ認知とは自分自身の認知や行動を把握する能力。「客観的な自己」などと形容される。

人間の生き方としては、非合理的なものに囲まれて生きている方が幸せだったり、美しいと感じたりする。

人間って惰性で生きているところがって、今までこういう仕事をしてきたから、こういう仕事を頂くから、それを一生懸命やる、というところがあるでしょう。今年はこことここで授業をやることになっているし、学会もこれとこれがあるからって。そういうことを一生懸命やるのもいいんだけど、人生を俯瞰してみたら、本当は今の人生で欠けているものや目指すべきマイルストーンが、あるのかもしれないと思います。

僕は40歳の時に突然、「そうだ、フルマラソンを走ってみよう」と思って、つくばマラソンに3回連続で出たんです。なんであのときフルマラソンを走ろうと思ったのかは自分でもわからないけど、まぁ、走ったわけです。それから約10年後、また東京マラソンを走って完走した。フルマラソンなんて小さなことですが、「実はやってみたほうが絶対いいのに、気づいていないからまだやってないこと」があるんじゃないかと思うんです。だから最近、世間の事より、そっちを一生懸命やろうと思っています。
 ポイントは、人間には「未来の記憶がない」ということです。過去の事をは覚えていても、未来の記憶を持っている人は普通はいません。未来がどうなるかは本当にわからない。今、「この先こうなるだろう」と予測していても、未来は誰にもわからない。

未来はわからないから投げやりになるのではなく、わからないから、今、一生懸命生きる意味がある。僕だって1年後、脳科学者をしているかどうかわからない。それは考えても仕方がない、
 未来がどうなるかわからないからこそ、今の自分の範囲で一生懸命考えるんだけど、一生懸命考えるのは、未来は必ずこうなるって決まっているからじゃない。わからないからこそ考える

老人を見て「老害」だと言って見たり、老人が若者を見て「ひよっこ」だと言ってみたり、そういうことも全く意味が分からない。だって、ただ時間軸がズレているだけのこと。早く生まれたか遅く生まれたか、それだけのことだ。どこかでランニングをしていて、僕が疲れてひとやすみとトボトボ歩いている横を若者が元気に走り抜けていく時、それはどう見られているか。年齢の違いだと見る人が多いかもしれない。
 でも実際には、僕はそれまですでに30キロくらい走っていて、その若者は今走り始めたばかりだということもある、どんなことでもこんなふうに単に軸がズレているだけだということに気がつけば、他人に優しくなれるのにと思う。
 苦しんでいるときには、「もう俺は永遠に変わらないんだ」という前提で考えるから苦しい。だけど人生ってもっといい加減なもの。予定通りにはいかない。人が見通しを立てた通りには進まない。

人は一瞬で変わることができる。それが人間の素敵なところだ。ハッと悟ることができる。それがいつ来るかわからない。それは一秒後かもしれない。人生って不思議なものなんだ。(中略)自分を押さえつけている回路を自分で外してあげることは難しいことだ。心にアプローチしていくとき、一本釘が刺さっているかのように、何か大きな理由があって、その釘さえ抜けばすべてが解決するように思いがちだけど、人間は複雑で予測が経たない。調子が悪ければ、調子が悪いなあと思いながら、とりあえず生きて、生きながら考える。(中略)生きていれば必ず何かが変わる瞬間が来る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?