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小説|薔薇垣の聖母子(後)

約束のあなたを抱いた産室の窓の向こうにかがやく朝陽


勤めていた会社は辞めることにした。亮輔はとくに反対しなかった。事情が事情なので、赤ちゃんのことは周りにはなにも話さず職場を去った。

そして、その日がくるのをただ静かに待った。家にいると家事は午前中にはひととおり終わってしまう。なので、午後からは毎日のように散策に出かけた。

この子がお腹にいるうちにいろいろなところを一緒にまわろう。公園ですずかけの樹の実を拾い集め、草むらで揺れるカラスウリを眺めたり、川面にのんびりと浮かぶ鴨の鳴き真似をしたりした。茜色の夕焼け空と紺色の空にかがやく金星。この美しい世界。少しでもいい、ママのお腹を通して教えてあげたかった。穏やかで静かな時間はただただ流れてゆく。

ある日、教会の前を通りがかった。
教会なんて子供の時に、祖父に手をひかれ連れて行ってもらった以来だ。外国船の船員だった祖父のごつごつした大きな手の感触を思い出す。

引き込まれるようにして教会の敷地内に入って行った。煉瓦敷の小道を建物に沿って歩いていくと、緑に囲まれた美しい中庭に聖母マリア像がたっていた。像をじっと見つめる。

愛する我が子が生け贄の仔羊となる定めを受け入れたひと。
およそすべての平凡な母親が味わうであろう喜びをみな棄てることを決めたひと。

神父さまは原罪の棘なき薔薇のお方と仰っていたけれど、どうしてそんなことが言えようか?
生まれくる前から死を決定づけられた子どもを産む母親の、嘆きを叫びを、マリア様は知っている。

泣かないと決めていた。
でもどうして。
涙は出てくる。
マリア像はただ静かにわたしを見つめるだけだった。


ちょうど正期産に入った日。
その深夜から陣痛が始まった。

「陣痛、その間隔だとまだかかるだろうけど。もうこっちへおいで。」
産院の先生に電話するとそう言われた。

浮腫もひどかったし血圧の数値も良くなかった。
お腹の赤ちゃんはきっと、ママの身体にこれ以上負担をかけられないぎりぎりのラインで生まれてくることを選んでくれたのだろう。
優しい子、とっても優しい子ね。
お腹をそっと撫でた。

地方出張の多い亮輔がちょうど家に帰ってきているタイミングでもあった。
そうね。パパにも会いたいものね。

先生が言っていた。
不思議と赤ちゃんは生まれてくるタイミングを選んでくると。出張の多いパパが家に帰っていたタイミングで生まれてくるのはよくある話だと。

コートをはおりスニーカーを履き、玄関に用意してあった入院用の着替えなどが入ったボストンバッグを持つ。

いよいよだ。会える時と別れる時がきた。

家のなかを振りかえった。しんと静まりかえる真っ暗な廊下やリビング。
ここへ生まれたばかりの赤ん坊を抱いて喜びにあふれ帰宅することはない。

「麻里ちゃん、タクシーがマンションの前に着いていたよ。」
亮輔が息をきらせながら玄関ドアを開け入ってきた。
「大丈夫?オレ、持つよ。」
ボストンバッグを持ってくれた。

ふたりでマンションの玄関ホールから外に出る。あたりは濃紺色の闇に包まれ、雨が蕭々と降っていた。吐く息が白く立ちのぼる。車寄せに待機しているタクシーに乗り込んだ。

タクシーの車窓を叩きつける雨はいつの間にか大粒になっていた。
覚悟はしていた。コミットもしている。
そういう定めだともわかっている。
だけど、悲しい。とても悲しかった。

タクシーが産院に到着した。
雨のなか院長先生と助産師さんが玄関前で待ってくれていた。院長先生も助産師さんも穏やかな笑みをうかべて待ってくれている。
それでも産みたい、というわたしの願いに耳を傾けて、受け入れてくれたふたりの気持ちがじんわりと伝わってきた。

2階の控え部屋に通される。階段を登って最初の部屋が分娩室でそのとなりが控え部屋になっていた。控え室は暖房で暖かだった。ベッドのうえに腰かけた。
陣痛の間隔は5分になっていた。そこからはなかなか進まず。寄せてはかえす陣痛の波を逃し逃し過ごしていった。

朝方、破水した。
陣痛の波と波の間で、助産師さんに手をひかれて隣の分娩室に移動した。
いよいよ分娩台にあがる。
息を大きく吸って、そして静かに吐いた。

怖くはない。
わたしのお母さんも
お母さんのお母さんも
お母さんのお母さんのお母さんも
みんなそうしてきた。そしてわたしも。

身体のなかからうねるように突き上げてくる波にのっていきんだ。万力で締めあげられたのかと思うような、腰骨に信じられないくらいの激痛が広がる。
「頭がもう見えてきているから、もう少しよー。」
先生から声がかかる。もう一度だけいきむ。
「もう力をぬいていいわよ。」
助産師さんから声がかかる。
あまりの痛みに逃げ出したくなった時。
「ああ、生まれたよ。男の子だね。」
わたしの両手におくるみにくるまれた、生まれたばかりの赤ちゃんが差し出された。
わたしはしっかりと受け取る。
すると腕の中で、赤ん坊は産声をあげ始めた。力強い泣き声が産室に響いた。

泣いている。
母胎から出たら、産声をあげることなくすぐに亡くなると聞かされていたのに。
泣いている。
ボクは生きている!生きているんだ!
そう言っているかのように聞こえた。
生命の神秘と奇蹟の瞬間。
涙があとからあとから頬を伝って流れおちた。

神様。どうして?どうして!
わたしにこのような喜びと罰をお与えになるの?

もはや言葉では言いあらわせない感情が身体の中に溢れ、頭のなかが混沌となる。
ただひとつ、わたしはこの子の母になるためだけに生まれてきたのだと、確信した。

ふと見ると分娩台の脇で、亮輔が泣いている。いつも陽気で冗談ばかり言っている亮輔の涙を初めて見た。
キャッチボールをさせてあげたかった。
ごめんね、亮輔。
「ほらっ、パパにこんにちはって。」
亮輔に赤ちゃんをそっと手渡した。
「かわいいね。かわいいね。」
赤ちゃんを受け取った亮輔は、大事そうに抱えると小さな顔をのぞきこみ、呟くように語りかけた。
だが、奇蹟はそこで終わる。
泣き声は小さく弱々しくなり、そして止んだ。
亮輔が泣きはらした顔で、こちらを向いた。目があう。わたしは黙ってうなずいた。別れの時がきている。赤ちゃんを手渡された。
わたしは、お腹のなかにいたときと同じように、赤ちゃんにやさしく語りかけた。

ママのところに来てくれてありがとうね。
ママをママにしてくれてありがとうね。
まぁ、なんてかわいい赤ちゃんなの。
こんなかわいい赤ちゃん見たことがない。
かわいい、かわいい、わたしの坊や。

そして小さな命は腕のなかで
静かに消えていった。

どれだけの間、息子の亡骸を腕に抱きながら泣いていただろうか?
ふと顔をあげると、産室の窓から美しい朝陽が射し込んでくるのを見た。
まぶしい光。自分が母の胎内からでてきた瞬間も世界はこんなにもまぶしい光で満ちあふれていたのかもしれない。

いままでで、見たこともないような、それはそれは美しい朝陽。

産まれてきて意味のない生命なんて、なにひとつないのだ。この子もそう。

息子は、「朝陽」と名付けて荼毘にふした。




※※※※※※
ガチャガチャと玄関の鍵が開く音がした。

「母上ーっ、ただいまもどりました!」
ランドセルも下ろさず、キッチンにいたわたしに走りよってくる。
桃みたいな顔を真っ赤に上気させて。
亮輔ゆずりのくせ毛が汗ばんだ額に張りついている。
「おかえりなさい。お外暑かったでしょう?麦茶飲む?」
冷蔵庫のドアを開け麦茶の入ったポットをとりだす。そしてコップに注いで手渡した。
「ありがとう。はやくママにあいたくて学校からずっと走ってきたんだよ。」
にっこりと微笑んだ顔。

桜の花びら舞う横断歩道を渡ったら
ひまわりの角を曲がり
どんぐりを踏みしめながら並木道を走り抜け
水仙の咲く花壇の脇を全速力で走る姿が目に浮かぶ。

それを6回繰り返した頃、あなたは反抗期になるのかしら?ママと口をきいてくれなくなるかもね。
そうこうするうちに高校生、大学生になって遊びやバイトやデートに忙しくて、ママなんてほっとかれるわね。とてもさびしいわ。
でも、そのうち初任給で買ったハンカチを照れながら手渡してくれたりするのかな?

ああ、会いたい。
あなたに会いたい。

ママはあなたを育ててみたかった。
(終)


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