小説|薔薇垣の聖母子(中)

贄となる定めの吾子を抱きつつをふくませる聖告の苛酷


その日の妊婦検診のエコー検査はやけに時間がかかった。

わたしはお腹の赤ちゃんがどれだけ大きく成長しているかしら?と、うきうきしていた。が、モニターを見る先生の険しい表情で、赤ちゃんになにかトラブルが起こったことを察した。

「胎児に腹部肥大の所見があるの。ここで診断名をつけるには慎重を期したいから、大学病院に行って詳しく検査してみたほうがいいわ。今、紹介状書くわね。」

赤ちゃんの腹部が肥大している…?
たしかに見せてもらった画像は、お腹の部分が果実のように大きく膨らんでいるように見えた。
でも体調は良いし、お腹の赤ちゃんも元気に動きまわっている。どうしたのだろう?
ほら、今だってこうしてお腹を蹴っている。不安な気持ちをなだめるように、自分のお腹にそっと手をおいた。

翌日、紹介状をもって大学病院に行った。
総合周産期母子医療センターがある、大きな病院だった。
精密検査をした結果は、耳を疑うようなものだった。

「プルーンベリー症候群の可能性が疑われますね。胃や肺に異常がみられ、尿路閉塞もあります。」

医師の説明は要するに、赤ちゃんの膀胱に水がたまり風船みたいに大きくなっている。それが横隔膜、胃や肺を圧迫し発達を邪魔しており、さらに腎臓にも障害を起こすかもしれないというとことだった。

説明を聞いているうちに、息苦しくなり吐き気がしてきた。
とにかく自分を安心させる言葉がほしくて質問した。
「先生、治せる方法はありますよね?」
医師の表情は固かった。
「ありますよね?」
声がふるえる。
「手術ということになりますが、症例自体が非常に少ないので手術例がほとんど無いのが現状でして…」
眩暈がしてきた。
医師はさらに話を続ける。
「手術で治る確率は非常に低いです。そして胎児にもお母さまにも高いリスクが発生するので、あまり、というかおすすめができない感じです。」
周りの景色が回転し始める。
「それから治療方針以前に、まず妊娠を継続するかしないかを早急にご家族とご相…塚本さんっ!塚本さん!!」
まっすぐに座っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。

看護師に両脇を支えられ、診察室の隣にある小部屋に運ばれ簡易ベッドに寝かされた。

「塚本さん、ご気分どうですか?」
しばらく寝ていると仕切りのカーテンが開き、看護師が声をかけてきた。
「だんなさんに連絡したら出張中だったみたいですね。だんなさんのお母さんに連絡してもらって、今こちらにお迎えに向かっていますよ。」
手際よく血圧計で血圧をはかりながら看護師が知らせてくれた。
「お義母さんが?わかりました。ありがとうございます。」
起き上がろうとしたら看護師に制止された。
「お母さんが迎えにくるまで横になられてて。今後のことはご家族の方と向こうの産院の先生とでよくご相談なさって決めてくださいね。」

ほどなくして亮輔のお母さんが到着した。

「麻里ちゃん、大丈夫っ?!」
かけよってわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
「お義母さん。」
涙もろくて世話好きで、このひとが血のつながったほんとうのお母さんだったら、どんなにかよかっただろう。と幾度も思った。お母さん。

「亮輔から、麻里ちゃんが病院で倒れたから迎えに行ってほしいっていきなり電話がきたから、びっくりしてとりあえず来たわよ。」
「お義母さん…。」
そのあとの言葉が続かず、だまってうつむいた。
お義母さんはわたしの表情で察してくれたのだろう、それ以上はなにも聞いてこなかった。


深夜、仕事をきりあげ急遽出張先から戻ってきてくれた亮輔と話し合った。

「赤ちゃんの助かる方法が手術しかないのなら、オレは手術なのかなって思っている。金銭的な面はオレがなんとかする。でも麻里ちゃんにもしもの事があったらと思うと、正直なところ迷っている。」
冷えきったコーヒーがはいった手元のカップを見つめたまま亮輔は言った。
「わたしは1パーセントでも望みがあるのなら、それに賭けてみたいの。」
「麻里ちゃんの気持ちはわかるよ。」
亮輔はうつむいたままだ。

気持ちがわかるですって?わかっていない。わかるはずがない。みんな、わたしの気持ちがわかるよ。とわかったふりをして、結局自分の意見を押しつけてコントロールしてこようとしてくるではないか。

母親はわたしだ、産むのはわたしだ。わたしの身体だ。なぜ、わたしのやりたいようにできない?
話し合いは平行線のままだった。

翌日、ふたりで産院へ行き院長先生を交えて話をした。わたしは手術による治療を強く主張し続けた。それに気圧された亮輔が、渋々受け入れるかたちとなった。

再度、総合病院に行って妊娠の継続と手術による治療の希望を医師に伝える。

「そうですか。あまりおすすめはしませんが、とりあえず手術自体が可能かどうか他の精密検査をしてからにしてみましょう。」
医師はやはり積極的ではなかった。

その精密検査で問題が発生した。
わたしの血液が珍しい稀な血液だったのだ。同様の血液を持った人が非常に少ない。
要するに、輸血ができない。手術ができないということだ。周りを囲む壕がどんどん狭まってゆく感覚がした。

「先生、自分の血を貯めて、自分に輸血する方法はだめなのでしょうか?」
どうしてもこの子を助けたかった。そのためならなんだってする。
「それはあまりにリスクが高いです。ご家族ともう1度話しあってみてはいかかでしょうか?」
医師の意見は変わらなかった。


亮輔は大反対した。
最初から手術に手放しで賛成なわけではなかったうえに、わたしが稀な血液だということを聞いて血相を変えて反対しだした。

「じゃあどうすればいいの?赤ちゃんはお腹の中にいるぶんには命を維持することができるけど、お腹から出たら生きてゆくことができないのよ!」
みんな好き勝手なことばかり言う。反対ばかりして、なのに決断はこちらにゆだねてくる。いらだちがわきあがる。
「オレだって…オレだって悲しいよ。でも、あなたを失う可能性が怖いんだ。」
亮輔はうなだれたまま言った。
自分のことしか考えていない。
もはや母となった女は、夫のことなどかまわない。夫は夫のままで、いつまでもお客様気分だ。
「だから今回はあきらめようよ。麻里ちゃん。」
信じられない、耳を疑った。
「悲しいって言っているけどほんとうに悲しいの?あきらめるってそれどういう意味?」
「えっ、だから…。」
亮輔が慌てたようにして顔をあげた。
「あきらめないよ。産むよ、産む。絶対に産むから。」
決意は変わらない。治療が無理だから赤ちゃんとさようなら?そんなの間違っている。
「赤ちゃんなんて、またつくればいいじゃないか。どうしてそこに固執するの?」
亮輔が、理解できないという顔をして言う。
なんていう母親という生き物を軽んじた発言なのだろう。産む機械ぐらいしか思っていないのか。
「なにを言っているの!?わたしは何人もの赤ちゃんを産める。何人もの子どもの母親になれる。でも、この子の母親はこの世でわたしだけなのよ。」
「ちがうよオレは麻里ちゃんの身体を思って。」
わたしは激しく首を横に振った。
「ちがう、ちがう!全然思ってなんかいやしない。亮輔が堕胎手術を受けるわけじゃないじゃない。わたしの心は、身体は。わたしはわたしのものよ。」
わたしはスマホを掴んで家をとびだした。

どこをどう歩いたのか覚えていない。何時間歩いたのだろう。
歩き疲れた。足や腰が痛むのでファーストフード店に入った。カウンターで紅茶を受け取り、2階の隅の席に座る。ぼんやりと窓から道路を行き交う車を眺めていた。
疲れた。心底疲れはてた。
なぜこんなことになってしまったのだろう。身の上に振りかかってきたいろいろな事に、身体が疲れ考えるのも疲れて、もう1歩も動けなくなっていた。
着信履歴をみると亮輔からの着信が何十件も入っている。
思わずため息がもれる。

どれくらい経っただろうか、目の前に人影が現れた。
「この辺り一帯のお店、探しまわったよ。」
その呼び掛けを無視し黙っていた。
「麻里ちゃん、そんな寒い格好していたら風邪ひいちゃう。風邪ひいたらお腹の赤ちゃんにさわるよ。」
亮輔だった。手にはわたしがいつも着ているフリースジャケット。そのジャケットをわたしの肩にかけた。
「どうせ堕ろしたいのでしょうから、風邪をひこうがひくまいが関係ないでしょ。」
亮輔から顔をそむけ、なげやりな返事をした。
「麻里ちゃん、ごめんなさい。オレが間違っていました。あなたの言うとおり母親はあなたで、産むのはあなたなのだから、あなたの思うとおりにお任せします。」
亮輔が困りきった顔をして言った。
「なによそれ、まるでわたしがわがまま勝手して、あなたを困らせているみたいじゃない。」
怒りで蓋をした悲しみが、ふいに顔をのぞかせた。目から涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい。」
亮輔はふたたび謝る。
「いいよ謝らなくて。あなたが謝ったところで赤ちゃんが治るわけでもないし。」
涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
「ごめんなさい。」
しょんぼりとして謝り続ける亮輔は、母親に叱られた小さな男の子のようだった。
ふたりの間に沈黙が流れる。長い長い沈黙。
「麻里ちゃん、もう夜遅いからおうちに帰ろう。」
亮輔がおずおずと手を差し出してきた。
その時、赤ちゃんがお腹をぽこんと蹴った。まるで、ふたりともケンカはやめてって言っているかのように。そうね、もう止めるわね。
「わかったわ。帰ろう。」
そう答えて、その手のひらの上に自分の手を重ねた。
亮輔は心底ほっとしたような顔になる。

でも、亮輔をゆるしたわけではない。
亮輔がわたしにひれ伏すように。
母体が胎児にひれ伏しただけなのだ。
ただそれだけのこと。
(後編に続く)


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