見出し画像

小説|薔薇垣の聖母子(前)

原罪のとげなき薔薇にかこまれてにえの吾子だく聖母の原罪

「母上ーっ、行ってまいります!」
小さな身体に不釣り合いなほど大きな黒のランドセルを背負って、わたしに声をかける。
「気をつけていってくるのですよ。」
その柔らかな頬にくちびるをよせた。
「はいっ!かならずや生きてもどってまいります。母上!」
給食袋が元気よく揺れ、ドアがパタンと閉まった。
朝恒例の小芝居。

※※※※※※※
結婚して1年が経った頃。
必ずといっていいほど28日周期できていた生理が遅れていた。
仕事帰りにドラッグストアへ寄り妊娠検査薬を買う。帰宅してリビングのソファーにハンドバッグを置くと、すぐさまトイレに向かった。
説明書にある待ち時間を待つまでもなかった。細長いスティック状の検査薬は、尿をかけた端からすぐにくっきりとしたプラスの印が現れた。
ここのところ、フライドポテトやたこ焼きなどのジャンクフードが無性に食べたくなっていたのでなんとなく予感はしていた。その予感が確信となって、じわり母となるよろこびがわく。

「亮輔くん、わたし赤ちゃんができたみたい。」
その日の深夜、帰宅した夫に告げた。
「へっ?赤ちゃん??」
まの抜けた返答。ネクタイを緩めていた手を止め固まっている。ぽかんとした顔がなんとも可笑しい。
「赤ちゃん??」
まだ話の内容を飲み込めていないようだ。
「市販の検査薬で陽性がでたの。産婦人科に行ってちゃんと診察うけたら確定なのだけどね。たぶん、赤ちゃんができた。」
亮輔の夕食用のご飯をよそおうと炊飯器の蓋をあける。水蒸気があがり、途端に胃がむかむかとしてきた。
「はぁ…えっ?麻里ちゃん、オレ、親父になるの?赤ちゃんは女の子なの?男の子なの?」
男はいつも的はずれなことを言う。
やはり妊娠の当事者じゃないからわからないのだろう。
「そんなのまだわかるわけないじゃない。」
ごはん茶碗をテーブルに置きながら答えた。
「いや、もし女の子だったら絶対に結婚なんて許さんから。そもそも男と付き合うのもだめだ、だめだめ。で、もしも男の子だったらオレ、一緒にキャッチボールして遊ぶんだ。」
亮輔は真剣な顔で言いきる。
以前、彼の大学時代の同期達とバーベキューをした時。同期が連れてきていた子ども達とすぐさま打ち解け、戯れ遊ぶ彼の姿と笑顔を思い出した。
きっと良い父親になるにちがいない。
「女の子か男の子かまだわからないし、そもそもそれはずっと後の話よ。」
わたしは笑いながら言った。


後日、予約した産院に行った。
「ちょうど妊娠5週と5日ですね。おめでとうございます。心音も確認されましたし順調ですよ。」
診察室の椅子に腰掛けたわたしに、エコー写真を手渡しながら、医師が告げた。
受け取ったエコー写真の赤ちゃんは暗闇の中に浮かびあがるハート型の塊みたいだった。

産院からの帰り道。
雨あがりのけやき並木路を歩いていた。

お腹のなかに赤ちゃんがいる。すごく小さいし、まだ人間のかたちすらしていないけど、赤ちゃんがいるのだ。
見上げると木洩れ日がきらきらと輝いている。

そうだ、お母さんに赤ちゃんができた事を伝えよう。お母さんこの前の健康診断で肺に白い影が見つかったって落ち込んでいたから。良い知らせですこしでも元気づけてあげたい。
携帯電話をとりだして母親に電話する。
3コールほどですぐに出てきた。
「もしもし」
いつもの覇気のない暗い声。
「あ、お母さん?麻里よ。」
「ああ、麻里かい。どうした?いつもは電話なんかよこさないでお母さんのことほったらかしているくせになんだ珍しい。」
いつもこの調子だ。
たとえ毎日電話したって、今度は「毎日電話してきてうるさい」と文句を言うだろう。
母親はわたしの返答などどうでもよく、自分が話したいことを好き勝手にまくし始めた。
健診で見つかった肺の白い影のこと。
近所の失礼な婆さんの悪口。
なかなか結婚しない自分の甥っ子の話。
わたしの級友の就職先や嫁ぎ先の品評。
都合が悪くなると黙りこんで無視してやりすごす自分の夫への文句。
堰をきったようにつぎからつぎへと垂れ流される愚痴や悪口。うんうんそうだね。と相槌をうって聞かなければならない。
ときどき、自分はお母さんの愚痴や悪口を受け入れるゴミ箱みたいな存在なのではないかと思う。
そうこうするうちに話題は自分の体調の悪さに移っていった。
肺の白い影の不安。母親は5年前、自身の母親を肺がんで亡くしていたので敏感になっていた。
微熱があるのは肺がんのせいではないのか?背中が痛いのは肺がんがひろがっているのでないか?
まだ、影が発見されただけで精密検査をしないとわからないのに。母親はしきりに肺の影のことを気にしていた。
この調子だともう何時間でも母親の話は続きそうだ。
「お母さん、じつはね。」
わたしは母親の話を遮って自分の話を切り出した。
「はあ、何よ?」
自分の話を遮られ不機嫌な声だ。
「わたし、赤ちゃんができたの。今、産院に行ってきて心音も確認できたよ。」
「そりゃおめでとう。よかったわね。」「うん、ありがとう。妊娠5週と5日だって。それでね…」
「ええっ!はぁっ?…。」
母親が驚きの声をあげて無言になった。
「お母さん、どうしたの?」
「妊娠5ヶ月って!!あんた、非常識よ!そんなになるまでほっといて!なんですぐに病院行かなかったの!?」
母親が急に怒りだした。妊娠5週と妊娠5ヶ月を間違えている。
「えっ?お母さん聞き間違えているよ。妊娠5週よ。5週!週よ!妊娠2ヶ月ってことよ。」
「いや。お母さんがあんたを妊娠した時は、生理が止まってすぐ病院に行ったわよ。あんたみたいにほったらかしになんかしてなかったわ!」
「だから、わたしも妊娠検査薬で確認してからすぐに産院を予約して行ったわよ。」「とにかくね、あんたは昔からいつも非常識なのよ!妊娠5ヶ月になるまで病院行かずにほっとくなんて、母親失格よ!」
通話を一方的に切られた。
茫然としてその場に立ちすくむ。

そうだ、いつもそうだ。お母さんはわたしの話をろくに聞かずに、勝手に聞き違えて理不尽に怒りだす。
結局、お母さんを喜ばせることなんてできないのだ。わたしの存在は、お母さんにとってなにひとつ喜びではない。

初夏の爽やかな風が通りすぎ、黄色いロングスカートの裾を揺らすのをぼんやりと見つめた。
(中編に続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?