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この七日間の速度で人生も体感したい

 年末年始の休みは何もやる気が起きずただ寝て、掃除もせずに自堕落に過ごした。しようと計画していたことはほとんどできていない。これが体調不良なのか、自分の甘えなのかは分からない。病気、とは思わない。七日間のうち、外出したのは二日目のみ。わざわざ計っていないが、三十分程度。それ以外はずっと家にいた。できることなら、あっという間に終わったこの七日間の速度で人生も体感したい。
 一年の目標を立てることは通常しないのだけれど、俺は物事に魂を込めすぎるきらいがあるので、これからは投稿を多くするため、文章の軽量化をはかりたい。魂を込めてこの程度の内容か、という惨めさも募るので。
 しかし、ある着想について説明しきるためにこのnoteを書いているのだから、短い文章に抑えることはまず無理かもしれない。書いているうちに個人的な思いを乗せて文章は自然に武装化されていく。
 実感として、書かれている内容が個人的であれば個人的であるほど、思いは伝播しにくくなる。たとえば、「朝起きるのがつらい」という感情は万人が理解できる。だが、「目覚めたときにまず見えるのは、フックが外れたカーテンの隙間から差し込む朝日だ。その菱形の光を見上げるたびに、幼少の頃、祖父の家の庭にあった物置小屋に閉じ込められたことを思い出す。悪ふざけを反省させられるためだったが、あのとき自分が何をしたのか覚えていない。ただ、閉じ込められていたあの無限にも思える時間の中で見上げた天井の穴がやけに眩しかったことだけはっきりと覚えている。だから朝起きるのがつらい」と付け足されれば、理解者は減る。長く書けば長く書くだけ人が離れ、書き手は孤独になる。あるいは単に技量の問題か。

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 無気力であっても一日のうちに動き出せるタイミングはあるもので、気力が湧いたその一瞬を逃さず『街の上で』を観たら、これが嬉しくなるくらい良い作品だった。もともとTwitterで見かけて気になっていた映画で、現在上映中の名画座ギンレイホールに休みの間に出かけようかと考えるともなく考えていたのだが、Netflixにあった。同じく今泉力哉監督作の『愛がなんだ』で好きな女の子の使いっ走りとして生きる情けない男・仲原を演じた若葉竜也が主演ということで期待はしていたのだが、想像以上に良かった。

 舞台挨拶を聞いていたら、この映画はコロナ禍以前の日々を尊く回想させるものとして評価されているらしい。たしかに『街の上で』ではカフェや飲み会、ライブハウスでの出会いが描かれている。そしてそこで行われた静かな会話には恋や友情の予感が伴う。監督いわく、作品撮影時には人々の懐かしさを誘う意図はなかったという。コロナの影響で公開が遅れたことにより、結果的に作品内の世界が人々の目に懐かしいものとして映った。
 この話を聞いて、自分はまったくそういう視点でこの映画を観ていなかったので驚いた。しかし考えてみれば、他者に『街の上で』の良さを伝えるとすれば上記のような説明は分かりやすい。懐かしさを持った視点で眺めないのなら、おれはいったいこの映画のどこに惹かれたのか?
 おそらく、おれが抱いていたのは皆とは別種の憧憬だ。根が引きこもりのおれにとって、カフェや飲み会等はコロナ禍以前からそもそも日常ではなかった。だから、『街の上で』を観ていて懐かしいという感情は生まれなかった。おれが感じていたのは、どこにも属せなかったということだ。
 おれはメインカルチャーには属せなかった人間で、だからといってサブカルチャーに逃避することもできなかった。『街の上で』の舞台は下北沢、いわゆるサブカル界隈の街だ。演劇の街に文化的な人々が集う。宇宙を飛び交う数匹の猫がプリントされたTシャツを本気でオシャレだと思う人たち。自然な流れで会話に出てくる熊切和嘉、魚喃キリコ、ヴィム・ヴェンダース。映画を眺めているうち、メインカルチャーの網にもサブカルチャーのふるいにも取りこぼされた自己存在が浮き上がった。結局おれはどこにも属せなかった。『街の上で』で描かれるのはどこかに属せた人たちの日常だ。おれはきっと、こういう日々を生きたかったんだな。

 『街の上で』を代表するシーンとなったのは、予告編の冒頭でも使われている荒川青と城定イハの会話の場面だろう。このふたりの存在自体、同映画で卓越していて、特に城定イハを演じた中田青渚の存在は自分にとって衝撃的なものだった。こういう人がいるんだ、という福音的な衝撃。無知の域から一歩踏み出て視界がひらけるときの、啓蒙的な衝撃。この衝撃は『愛がなんだ』で若葉竜也を知ったときにも感じたものだった。若葉竜也は声がすごくいい。たとえば『街の上で』の「でも街もすごくないですか」という台詞を読み上げるとき、「な」と「い」の間がかすれて、「で」がほとんど発音されない。独特な震え声と、それに似合う表情と姿勢。そんなにたくさんの作品を観たわけではないけれど、日本の俳優で一番好きかもしれない。
 少し脱線したので『街の上で』の中田青渚が良かったという話に戻ると、彼女は、恋人に浮気されて落ち込んでいる主人公を救うかもしれない可能性に満ちた存在として物語の中盤から登場する。単刀直入に言えば方言や服装を含めてすべてが可愛らしくて良かったのだけど、なにより中田青渚がときどき見せる目がすごく面白かった。笑えるという意味ではなく、なんでこの子はこんな目をして人のことを見るのだろうという不思議からくる面白さ。本当に表現し難いのでここでは省くが、たとえば居酒屋で自主映画の監督を見ながら交わした「モテそうだよね」「モテそうか?」という会話の後の目。その目がすごくよかった。
 それで中田青渚の出演作をほかにも観てみようと探したところ、家で観られそうなのが『君が世界のはじまり』で、予告編を観てすごく悩んだのだけれど、観てみたらやはりあまり好みではなかった。悪く書いても仕方がないのだが、登場人物・純がブルーハーツを聴くシーンにまず最初の違和感を覚えた。父親からのLINEを見て突然呼吸が荒くなった純はYouTubeで「気が狂いそう」と検索し、"人にやさしく" を再生する。ブルーハーツが好きならYouTubeで聴くなよ、と思った。悩みを持って音楽を好きになったなら、そのバンドのCDやレコードを持っていてほしい。ただそのあと映画を観ていると、彼女がそのとき初めてブルーハーツを聴いたことが明らかになるのだけど、そもそも"人にやさしく" の歌い出しの「気が狂いそう」にはネガティブな意味合いは含まれていないと思う。動悸が激しくなり髪を掻きむしりたくなるような苛立ちを覚えて狂うというよりは、晴れた空を見上げたら眩暈がして暗くなった頭に夏日が差してそれでも歩き続けなければならない、というような。激しく狂うというよりも、発狂寸前のところで狂えない人の歌。そういう細かい認識の違いみたいなものを各シーンで感じて、好きにはなれなかった。

 あまり好みではない作品に多く触れていると気が滅入ってくるのだけど、この年末年始に読んでいた本もなかなか読み進めることができなかった。
 いま自分が考えていることを補強するために世界認識の哲学とニーチェを学ぼうとしているのだが、休みのうちに読みづらそうなものを読み切ってしまおうとジョージ・バークリーの『人知原理論』に手を出したのは間違いだったのかもしれない。自説に向けられるであろう意見への反論ばかりが記されるようになった中盤あたりからついていけなくなり、というか興味がなくなってきて、結局残り3分の1のところで読むのをやめてしまった。
 それまでの時間が無駄になってしまうので途中で本を読むのをやめた経験はほとんどない。が、『人知原理論』は読み進めていくうちに自分が勉強したかった範囲から離れていくのが分かってきたし、このまま嫌々読み進めていく方が時間の無駄なのではないかと感じられてきた。読んでいる間、これを読み続けて意味はあるのか、と自問し続けていた。そして最終的には、意味はない、と見切ったのだった。
 生きていていろいろなことに「意味はあるのか?」と問いかけ、そのたびに遅かれ早かれ判断を下さなければならない僕らはきっとこの世界で不安定に揺れているのだ。結局なににベットするかなんだよな、と思う。自分の人生を生きる上で何を選ぶか? 生き方においてなにかを選ぶということは賭けるということだ。自分の選択を信じるということだ。

本当に彼と組めてて良かったですよね。僕が面白いと思って「コンビ組みましょう」って言ってるんで。だからR-1獲ったときは嬉しかったですね。「ほらね!」って思いました。僕が(初めて野田クリスタルを)見たときピンネタだったんで。で、そのピンネタ観て、面白いと思って、「コンビ組みましょう」って言ってるので、「ほらね!」っていう気持ちでしたね。「見たか!」って思いました。

『M-1 2020 アナザーストーリー』でマヂカルラブリー・村上が語っていた。「彼(野田クリスタル)にフルベットしたんで、13、4年前に」と。その結果、彼は芸を磨き切っても勝ち抜くことのできない奇異でありながら全漫才師が崇拝するM-1グランプリのタイトルを獲得したのだ。十数年と長い時間がかかったが、彼が若い頃に信じた全賭けという選択は正しかった。一方で、優勝どころか1回戦も通過できない芸人もいる。つまり賭けの外れ続ける人もいる。芸人だけじゃない、この世に生まれたあらゆる人、いまはもういない人も含めて、みんなみんなベットしてきたのだ。子供の時からずっと、勝手に放り込まれたこの世界で、なにが正しいかも分からないなかで、自分の選択を、これでいいんだろう、これできっと大丈夫だろうと、心細い気持ちで頷きながら、時には当てずっぽうで、みんなみんな信じてきたのだ。
 何度も書くのをやめては再開し、年末年始休暇の最終日にようやく本腰を入れて書き始めたこの投稿で、冒頭に目標を掲げておきながら結局長文を書いて今日までかかっているこの俺という存在、今まで誰にも認められなかったしそれはこれからもそうかもしれないが、俺は俺の感覚にフルベットする。的外れでもいい。無駄になってもいい。常に切なさが伴うけども、俺は俺の感覚にフルベットする。人知れずに。

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