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「しかたがない」以外の解決策 〈前〉

 それが取り返しのつかないレベルではなくとも、ある問題が起きたときに自分は真にそれを解決してこなかった、「しかたがない」という割り切りの思考でしか対処することができなかった、と思う。しかしこれは自分に限ったことではなく、他人に意見を求めても諦めを促されることは多いのだから、誰しもの万能薬として流布している発想だろう。俺にはそうやって心になにか暗い一点を残したまま次の局面に移らなければならないその歩み自体が悲しく感じられ、「しかたがない」以外の解決策はないかと探してきたのだが、いつまでも探り当てることができない。そもそも探していると言いながら、常日頃から思案をめぐらせているわけではなく、こうして気分が沈んだときに、ああ、そういえば、と懐中電灯を手にして身辺を頼りなく照らして探しているだけなのだが。しかし、それもこれも、忙しい日常生活では学生時代の頃のように自己存在について問う余裕などないわけなのだから、こうなってしまった現実もやはり「しかたがない」のか。

 この一年をかけて考えていたわけではないが、きっと考えていたのはそんなことくらいで、昔よりも考えることは遥かに少なくなった。朝起きて身支度をする間も、会社の行き帰りも、仕事の予定が頭を占めている。テレワークによって家に仕事が持ち込まれてしまう世の中において、仕事柄いまだ出勤している自分はまだ家と仕事の境界線を切り崩されていないとどこか喜ばしく感じていたのだが、そもそも頭の中を占拠されてしまっていた。
 こうした変化は段階的にではなくて、予兆なく気付けば起きていて、同様に俺は本もあまり読まなくなっていた。

『深夜特急』
『深夜特急』は間違いなく中学生のときに影響を受けた本のひとつで、俺は高校に上がったらバイトをして金を貯めてバックパッカーになるんだと息巻いていたが、いざ高校生になると自分にはバイトを長時間するやる気もひとりで海外を回る勇気もないのだと知った。大学時代、遠くへ行こうと友人を誘ってたどり着いたのは多摩川だった。
 いつか読み返そうとは考えていたのだけれど、今年の2月頃にその気力が湧いた。10 年以上ぶりに読んだがやっぱり面白い。出てくる登場人物はほとんど年下になっていた。自分の現地点は他者と比較してしまうもので、沢木耕太郎がミケランジェロの「ピエタ」に衝撃を受けるシーンはそのまま僕自身の衝撃につながる。

 私は「ピエタ」の正面に立った。
 イエスはマリアの膝の上に横たわっている。ダランと垂れ下がったイエスの右手の甲には磔にされた時の釘の痕が残っている。マリアは右腕をイエスの背中から脇に廻し、抱きとめるように支えている。そして、どこを見ているのだろう、悲しげにうつむいている。いや、悲しげなのは、その表情より、中空に投げ出された左手の指の表情だ。
(中略)
 私は、これがミケランジェロ二十五歳の時の作品であるということに衝撃を受けた。自分とほとんど同じ年頃の若者がこのようなものを作り上げたということは信じがたかった。この世で一番美しい女性を造形したのが、今の私とほとんど同じ年頃の十五世紀人だったというのだ。
〈こんなものがこの世に存在していいのだろうか……〉
ー沢木耕太郎『深夜特急6―南ヨーロッパ・ロンドン』(新潮文庫 p. 32-33)

 くしくも、インドからロンドンへ旅した作者・沢木耕太郎の年齢は当時 27 歳(旅の途中で誕生日を迎える)。自分自身こまごまとした変化が多かったけど、他の人を見ていてもなにか 27 歳というのは転換期になりやすい年齢なのかもしれない。アメリカに渡ったときのイチローも、今年2刀流としてメジャーで大活躍した大谷翔平も 27 歳だ。カート・コバーンやジミ・ヘンドリックスが死んだのも 27 歳。『人間失格』の大庭葉蔵も27歳。転換期にある 27 歳、俺の現実は大きく転換することなく暗いままだ。中学生の頃はこんなに時間がかかると思ってなかったなあ。

『槿』

下水の敷設が進んで川の水がだいぶ綺麗になったので町の風物を取戻そうというつもりか、汚水の上澄みを想わせる、醇化された汚れそのものというような黒っぽい透明さの中に、あちこち殺風景な岸壁に寄って、派手な色模様の鯉たちが十匹から二十匹ぐらいずつ密に群れ、頭を同じ向きにして、そよりとも動かずにいる。
「大きくて、苦しそうですね」背後で井出がつぶやいた。振返ると金網の前に立ち、いたましげな声を洩らしたにしては涼しい目つきで魚たちの、なるほど病いみたいな肥満を眺めていた。
「暑さに往生してるな。人間の魂も、今ではあんなものだろうか。昔は螢になぞらえたりしたようだけど」
―古井由吉『古井由吉自撰作品 5 槿/眉雨』槿(河出書房新社 p. 201)

 ハードカバーの重くて分厚い全集を持ち歩いて、寝ぼけた頭でちびちびと読み進めた。結局二ヶ月近くを要したかもしれない。小説を読んでいてなにが起きているのか分からないという感覚は久しぶりで、しかしそれは僕の理解力不足というよりも文体としてあえて時空を曖昧に書いているらしい。だが、読むうちに疲弊してきて、もう小説はいいか、という気分に陥った。小説というのは誰かのアウトプットであって、だからそこから何かを感じ取ったとしても、基本的に僕たちは小説から得たものを「引用」という方法でしかアウトプットすることができない。停滞感がつきまとうので、それでもう小説を読むのはやめようと思った。だからといって自己啓発本やビジネス本を手に取る気はさらさらなく、以前から勉強しようと思っていたキリスト教の本を買い漁った。
 現代の日本人が持つ宗教観には嘲笑が含まれているけれど、それは輪の外にいるからこそ持てる視点で、一歩中に踏み込んでみると五大宗教の信仰者がけして盲目であるわけではないことはすぐに分かる。最初に学ぶのは仏教でもよかったのだが、先にキリスト教について勉強しようと思ったのは自分の好きな文化により密接的だからで、たとえば Spacemen 3 が歌うところの “Lord” は誰を指しているんだろう? なんとなくは分かるが明答はできないことを少しずつ減らしていきたいし、減らさなければならないのだと思う。

 面白かったのは「免罪符」の誤用について。免罪符によって実際に免れることができるのは「罪」ではなく「罰」だそうだ。繰り返しになるけれど、つまり人は「罪」から逃れることはできないのだ、と。あともうひとつ面白く感じたものがあったのだが、集中的に勉強していたのは夏だったので忘れてしまった。勉強の一次的な締めくくりとして読み始めた聖書は、繁忙期の終わり近くに仕事の疲れが溜まって電車では寝るようになったので序盤も序盤の方で読むのをやめた。絶対に寝ないように決めていた電車では寝てしまうし、なにかを学んでもすぐ忘れてしまうし、俺という存在は確実に衰えている。

***

 この note は今年1年間の振り返りなのでそれっぽいタイトルにすればいいのだけど、俺は直接的な表現が好きではないので、こうして語り出しすらも回り道してしまう。
 昨年は Netflix で『フレンズ』をずっと観ていたけれど、今年は上期・下期それぞれにハマったシリーズがあった。

『The Office』
 製紙会社を舞台に展開されるモキュメンタリー形式のシットコム。スベり笑いが外国にもあり、しかもそれが通用するというのを初めて知った。Netflix ではシーズン3までしか配信されていないため、今年の目標はシーズン4以降を観るという他力本願なものだったけれど、結局叶うことはなかった。しかもいま確認したら今年で配信終了らしい。新しい作品ではないし、オフィスが舞台で派手さがないから日本の視聴者を獲得できないのはしかたがないのかもしれないけど、もう観れなくなると思うと惜しいなあ。

『水曜どうでしょう』
 観たいと前々から思っていたものは観る気にならないが、手持ち無沙汰なのでなにかとりあえず観てみるかという軽いノリがきっかけだったにもかかわらず途中でどハマりして、10 月以降はずっと『水曜どうでしょう』関連の作品を観ていた。「サイコロの旅1〜6」を観ている間は、面白いけどめちゃくちゃ面白いわけでもない、というテンションで、映し出される 90 年〜 00 年代の空気が好きで観ていたのだけど、「対決列島」をはじめとする他の企画が面白すぎた。「夏野菜」「ユーコン川」の頃の大泉洋は 27 歳で、あの神がかり的な饒舌に憧れる。そして自分にはなにより鈴井貴之という存在だ。
 言われている通り、大泉洋と藤村Dの掛け合いがトークのメインになるにつれて、鈴井貴之は番組内で話さなくなっていく。顔だけでなく挙動までカッコいい人というのはいて、『水曜どうでしょう』をまだまだ全然知らない頃は鈴井貴之をそういうカッコいい人として見ていたのだけど、次第にこの人は葛藤する人だと知って興味を持つようになった(あと単純に今年一番笑ったのがジャングルでのバリケード作りとアメリカ横断でのインキー事件だったから)。監督作『man-hole』『river』も本当にいい作品だけれど、メインの客層(=『水曜どうでしょう』ファン)は芸術混じりではなく純エンタメの映画を求めていたわけで、自分が本当にしたい創作の方向性と客が求めるものとにどうやって折り合いをつけるべきか、三作目以降おそらくは葛藤したことが窺える。三作目『銀のエンゼル』のテーマもいい。チョコボールの銀のエンゼルは5枚集まらないと景品と交換ができない。その5枚目に出会えないというテーマがいかにも鈴井貴之っぽい。『man-hole』『river』それぞれのメイキングで「カッコいいものがカッコいいんじゃなくて、カッコ悪いものがカッコいい」と言っていて、そういう感覚を持つ人がこの世界にいてくれるということが嬉しい。取締役会長・俳優・映画監督・放送作家・ラジオDJ……肩書きが多いのはどれも中途半端にしかできなかったからだと本人は言うが、普通の人ではこなせるものではない。でも性格的に葛藤せざるをえないというその人間性に惹かれる。

「一生どうでしょうします」宣言をもって『水曜どうでしょう』はレギュラー放送を終了させる。番組を存続させるためにあえてピリオドを打ち、その後定期的に特番を組むこのやり方は人気番組として一番理想的な舵取りなのではないかと思う。僕はだいぶ乗り遅れてしまったけど、このあとの自分の人生で『水曜どうでしょう』の新作を待ち続けられることは喜びだし、20年という長い期間にわたって日本全国を魅了し楽しませた『水曜どうでしょう』班の四人は本当に素晴らしい仕事をこの世に残されたと思う。


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