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「しかたがない」以外の解決策 〈後〉

 観た映画の本数も減ったけれど、今年は良いと感じられる作品を例年よりも観れた気がする。

『アフタースクール』

「お前みたいな生徒、クラスに必ず一人はいるんだ。全部わかったような顔して、勝手にひがんで。でも学校なんか関係ねえんだよ。お前がつまらないのは、お前のせいだ」

 邦画はあまり観ないのだけれど、『水曜どうでしょう』で好きになった大泉洋、安田顕の本業を知らないのも変だし興味を持ったのでいくつか観てみた。大泉洋の代表作は『探偵は BAR にいる』だろうけど、『アフタースクール』のほうが面白かった、というより、上の台詞がよかった。全部わかったような顔をして学生時代を過ごしてきた自分には。安田顕の主演作としては『愛しのアイリーン』がよかった。しかも原作は新井英樹。

『ポルト』
 仕事から帰ってきて飯を食べて眠り、目覚めた深夜2時くらいから観始めた。観た時間帯もよかったのかもしれない。深夜の静けさが作品の空気感にマッチしていた。感想や作品評に他作品を持ち出すことは好きではないけれど、リチャード・リンクレイターの『ビフォア』シリーズに通ずるものがあった。ただ喋りながら歩いている男女の姿というのは本当にいい。

『凶気の桜』

 窪塚洋介主演作。予告編からすでに分かるように、"才気走る" とはこのこと。年1、2本、観ている間ずっと圧倒される映画に出会う(去年で言うとアリ・アスターの『ヘレディタリー/継承』と『ミッドサマー』)。不思議なのはこれだけの作品を撮れるのにその後まったく映画を撮っていないということで、次の『アンチヴァイラル』を撮ったブランドン・クローネンバーグも次作を発表するのに8年かかっている。

『アンチヴァイラル』

 スプラッター映画は苦手だけど、物語のエッセンスとして残酷描写が含まれている作品は好きで『アンチヴァイラル』はその塩梅がすごくよかった。ケイレブ・ランドリー・ジョーンズがカッコいいを超えてとにかく美しかった。作品の評価は不思議と低く(デヴィッド・クローネンバーグの息子ということでハードルが上がっているのかもしれないが)、たとえば The Guardian 誌は下記のように評している。

Brandon Cronenberg's movie is made with some technical skill and focus, but it is agonisingly self-regarding and tiresome.
(ブランドン・クローネンバーグの映画は、技術的なスキルと集中力で作られているが、苦しくなるほど自己中心的でうんざりする)
(引用元:https://en.wikipedia.org/wiki/Antiviral_(film)

 作品作りは出発点として自己中心的なものなのだから、その土台の部分を批判されたら敵わないと思うがどうか。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』
 お前が反逆心を育てるために聴いていた歌はどれも自分が書いたのだと、黒幕が主人公に向けて Nirvana の "Smells Like Teen Spirit" をピアノで弾き始めるシーンがよかった。と同時にやっぱり自分の考えていることなんてすでに作品化されているのだと改めて思った。欅坂46 の "サイレントマジョリティー" はアイドルのデビュー曲としてだけではなく、歴代でも最高の J-Pop だと思うけれど、あの曲を聴く気になれないのは平手友梨奈が作詞していないから。"サイレントマジョリティー" は大人や社会を糾弾する若者の反逆ソングだが、歌詞を書いているのは秋元康という大人だ。つまり若者はこういうことを考えているよねと見抜かれて、あの歌詞は書かれている。だからあの曲を聴いて「やっぱ大人ってクソだよな」と喜ぶのではなくて、なによりも大切な自分たちの反抗心を大人に見抜かれて利用されていることに怒れ。

『ライトハウス』
 観ている間ずっと退屈というか、ウィレム・デフォー演じる老人のウザさに疲弊してきて、でも映画館で観ているから途中で抜け出すこともできず、ぼーっと映像だけを観ながら「俺は何をしているんだろう?」と映画とは関係のない自問自答で死にたい気分になったが、ラストシーンがめちゃくちゃにカッコ良すぎて観て本当によかったと思えた。

『ザ・パブリック・イメージ・イズ・ロットン』
 暗くなった劇場に "Public Image" イントロのベースが響く。オープニングに映し出されたライブ映像を観ながら泣きそうになった。Public Image Ltd.  は大学時代で味わったやりきれない感情につながっている。今のジョン・ライドンについてとやかく言う人がいるけど、お前は今すぐ自分の持っている CD やレコードを全部捨てろ、と思う。エンドロールでジョン・ライドンがイアン・マッケイに話しかけていたのが嬉しかった。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』
 庵野秀明によりすべての謎に対する答案が提出されたことで、TV アニメ開始時から乱立した考察サイトがすべて敗れ去った『新世紀エヴァンゲリオン』最終作品。世間では大団円というポジティブな受け取られ方をされたみたいだけど、俺はあのエンディングに進研ゼミの広告漫画と類似したものを感じて、碇シンジという少年に共感していた思春期特有の暗さから抜け出せない人々は馬鹿にされたのだと思った。新劇場版も「オタクはアニメじゃなくて現実を見ろ」ということだったが。

『アレックス STRAIGHT CUT』
 最初は珍しく直球のタイトルで投稿したけど、自分で見ていて惨めだったのでその後修正した。

***

 毎年1年間に聴くアーティストの予定を決めている。今年は Fleetwood Mac の年。本当は記事を書こうと思ったのだけど、まとめきれる自信も気力もないのでやめていた。
 1967 年、ピーター・グリーンを中心に結成された Fleetwood Mac はリズム隊をそのままに、ギターとボーカルを入れ替えながら活動を続け、スティービー・ニックスとリンジー・バッキンガムを迎えた 1975 年から全盛期に突入する。ボーカルを残して他のメンバーが脱退するケースは多いけれど、バンドの顔とも言えるギターやボーカルが頻繁に入れ替わる体制は珍しく、代表作だけを聴くつもりが結局すべてのアルバムを聴くことになった。
 昨年、ピーター・グリーンが亡くなった時にスティービー・ニックスは下記のような追悼コメントしている。

"His legacy will live on forever in the history books of Rock n Roll. It was in the beginning, Peter Green's Fleetwood Mac and I thank you, Peter Green, for that. You changed our lives."
(引用元:https://amass.jp/137232/

 ピーター・グリーンはイギリス生まれで、スティービー・ニックスはアメリカ生まれ。スティービー・ニックスがバンドに加入した頃にはピーター・グリーンはいなかった。生まれた国も活動時期も違う。でも、ピーター・グリーンが Fleetwood Mac を結成しなければ、スティービー・ニックスはまったく別の人生を歩むことになっていた。Fleetwood Mac は楽曲だけでなくバンドとしての歴史にも惹かれた。途中でリンジー・バッキンガムがポスト・パンクに影響を受けた曲を作り始めるのも面白い。
 1977 年『Rumours』を発表した頃、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスは別れ、ジョン・マクヴィーとクリスティン・マクヴィーも離婚していて、言ってみればバンドは泥沼の状態にあった。最高傑作と言われる『Rumours』の中でも際立っている "Go Your Own Way"(リンジー・バッキンガム作曲)の歌い出しは「Loving you isn't the right thing to do」だ。この言葉は同スタジオにいるスティーヴィー・ニックスにそのまま突き刺さる。そしてこの彼女への訣別を宣言する曲のコーラスを歌うのもスティーヴィー・ニックス自身なのだ。残酷なことをする。が、そうしたメンバーへの苛立ちも成功によるプレッシャーも全部真正面から受け止め、それでもバンドをやめることはしなかった5人が作り上げた『Rumours』にはこちらに迫り来る緊張感が閉じ込められ、コンピューターではけしてたどりつくことのできない領域へと到達した Fleetwood Mac はバンド・ミュージックの可能性を示した。

Future Islands

 アルバムよりもライブで聴いた方が絶対にいいバンド。ギターなしの楽器陣で構築された郷愁的切なさの中、ボーカルが奇怪なダンスとデスメタルのシャウトを混ぜてステージを作り上げる。時折見せる気迫は演説のよう。アルバムでは普通に歌われているサビをなぜかライブではシャウトして歌い上げるのは世界観を崩しかねないし、実際崩しているのだが、彼は奇妙な良さにまで昇華させている。こういう通常では考えられない表現を見せる人には本当に惹かれる。普通に歌ってもよいのだ。でも理由は全然分からないけど、今の形を選んだ。意味不明なので笑っちゃう人もいると思うが、自分はこのパフォーマンスに惹きつけられる側でよかった。

A Tribe Called Quest

 最初はファーストよりもセカンドが評価されていることに納得がいかなかった。ジャズを武器にローテンションでクールに Q-Tip がライムするファーストに比べて、セカンドでは Phife が前面に立ち、噛みつき吠えるようなラップを披露する。もっと Q-Tip が聴きたいのに、というのが正直な感想だったが、ドキュメンタリーを観て、A Tribe Called Quest は Phife なんだと気付かされた。セカンド1曲目の歌い出しが Phife から始まるのも、ファーストでブレイクしたアーティストが陥りやすいセカンドのジンクスから脱却するための戦略なのだ。A Tribe Called Quest は Q-Tip だけじゃないのだと。あえてファーストの時点では Phife という才能を隠していたのだと。初めて聴いたときに Phife の良さを見抜けなかったことが恥ずかしいし、耳が悪いと思う。

 OutKast, Digable Planets, Jungle Brtohers, De La Soul……、夏はヒップホップを重点的に聴いたが A Tribe Called Quest 以外あまりハマらず。聴ききれなかったので来夏に持ち越したアーティストは多い。

Mark McGuire
 音楽として The Durutii Column のセカンドが理想なのだけど、The Durutii Column 自身セカンドのような音楽性を他作品で披露していないし、ジャンルで他アーティストを探そうにしても既存ジャンルではくくりきれていないので探すことができなかった(Wikipedia には Post-Punk や Dream Popと書かれているが絶対に違う、というかざっくりくくりすぎている)。だから Mark McGuire の発見は歓喜ものだった。ただいろんな名前で活動しているので、全部 Mark McGuire 名義でやってほしい。(話がズレるけど、The The のマット・ジョンソンが、自分のアルバムすべてがレコード店で一緒に並べられるように 1981 年発表のソロ作『Burning Blue Soul』を The The 名義で再リリースした、というエピソードはすごくいい)

 ほかには過去に聴いたけれど代表作しか聴いていなかったバンド(The Jesus And Mary Chain, Pixies, Wire, The Police)、聴くのを先延ばしにしていたバンド(Sublime, Bikini Kill, Mudhoney, Motorhead, Slowdive, Lush, The The, Pet Shop Boys, The Human League)を聴いた。
 いま聴いてるのは Deafheaven。シューゲイザーとブラック・メタルを融合した Blackgaze と言うけど、どっちかというとシューゲイザーよりもポスト・ロックだろう。ジャンルとしてポスト・ロックはどれも曲が長すぎるので苦手だけど、アルバムに1曲という割合でめちゃくちゃ好きになる曲がある。

In the hallways lit up brightly but couldn't find myself
I laid drunk on the concrete on the day of your birth
in celebration of all you were worth
明るく照らされた廊下で自分を見失う
君の生まれた日にコンクリートの上で酔っぱらいながら君の誕生の価値を祝う

 振り返ってみれば、ここまでの長文になったのだから、収穫の多い一年だったんだろう。自覚がなくても。

***

 その発言に信頼を置いている人が「あまりにも人体実験だったけれど、心が汚れなかったと分かったから引退する」と言った。俺の歩みが遅いので、どんどんと置いていかれてしまうこの不甲斐なさ。
『BLAME!』を読んだ。巨大な建築物を黒点の小ささで旅する主人公・霧亥、遠方の視点から捉えることによって描かれるその比較、そして物語としてたまたま語られただけで、あの世界において『BLAME!』で起こった出来事にはなんら特別性はなく、霧亥は英雄でもなく救世主でもないという設定の途方もなさ。収入を得るようになって子供の頃に買えなかったおもちゃを集め出す人がいるけれど、自分は中学や高校の頃に興味を持ったが結局手に取ることはなかった漫画をこれから少しずつ読もうと思っている。『BLAME!』を読み終えて、これを知らずに死んでいく人生もあり得たのだから知れてよかったと思った。俺は俺の感動する全ての作品に出会いたい。
 M-1 は錦鯉が優勝して本当によかった。「昔は芸人を本当に馬鹿なやつだと思い込んで客は笑っていたけど、今は芸人が楽屋では別に馬鹿じゃないことが世間にバレてしまったのはよくなかった」というようなことをビートたけしが言っていたけれど、ボケの長谷川雅紀は本当に馬鹿だコイツと誰もが見ていられる芸人で本当にカッコいい。でも、今年の M-1 は特に「〜だったかもしれない現実」に満ちていて、観終わったあとにすごくモヤモヤした。モグライダーやランジャタイの出番が後半だったら。ハライチではなく金属バットが敗者復活していたら。ももがインディアンスよりも前にネタを披露することができていたら。オズワルドが2本目に別のネタを用意していたら。優勝者が変わっていたとかじゃなく、もっといい大会になっていたと思う。ありえたかもしれない現実というのはそれ自体で暴力だ。ありえたかもしれない現実、それは俺にとって嬉し泣きすることができたかもしれないという現実だ。それを思って、M-1 翌日からは落ち込んだ。
 この一年、猫背やスマホ首が解消されてどんどん姿勢が良くなっていった。でもそのことは心のどこかで悲しかった。正しい姿勢で過ごせるようになって猫背だった頃の自分の写真を見るとものすごく情けない姿をしているけど、悪姿勢がある意味精神の歪さにもつながっていたのだから、可能であれば猫背の俺としてこの後の人生も生きていたかったように思うのだ。
 人間は常に空腹でいるのが正しいのではないか、という独自の思想にもとづいて食生活も変わった。野菜が美味い。
 ニコ生は変わらず観ている。でも観ている人は変わった。これまで興味を持てなかったが、今になってその人に興味を持つ、というのはどういうことなんだろう。反対に、好きだったが途端に活動を追わなくなる人もいる。ニコ生に限らず。それもずっと不思議だった。きっと、自分にとってのその人の全盛期というのがあるのだ。追ううちにその人も変わったし、自分も変わった。でも嫌いになったわけではない。その人の“あの頃”のほうがよかった、というわけでもない。そのときのその人の感性や喋り方や見た目が、そのときの自分に馴染んだのだ。
 今年は漫才を観に行ったり、パイプオルガンのコンサートを聴きに行ったり、少しだけ外に出ようと頑張ってみた。でも結局は、家にいる方がいいな、と思ってしまう。
 ここに書いたこと、全部全部ひとりの記憶だ。ひとりの変化だ。ひとりの感慨だ。これだけ長く書いて。僕の思い出には他人が絡まない。俺は今年も本当にひとりだったんだなあ。そしてきっと来年も。でも、それもしかたがないのか。この世に生まれて誰の仲間にも入れなかった。

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