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【短編小説】かたすみのピアノ

(※画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りしたものです。)

けたたましい音を立てて、電車がホームについた。人々はいつもと同じように流れを作り、流されながら改札をくぐり街へと繰り出してゆく。

雪子はいつも通りの道を行きながら、いつもと違うことを考えていた。先週亡くなったある友人のことである。その人はかつて雪子にこう言ったことがある。

「自分一人がいなくなったって世界は何の変化もなく、回り続けると思うんだ」

その言葉に何と返事をしたか、雪子は覚えていない。「そんなことないよ~」とか「大丈夫?なんか嫌なことでもあった?」とか、そんなありがちな返事をしたような気がする。あれはあの人の最後のSOSだったかもしれない。もし、もっと真剣に答えていればあの人はいなくならなかったかもしれない。

かもしれない、が脳内を巡回する。この世で一番意味のない、もしくは意味を失った巡回だ。雪子は真っ直ぐ正面を向いたまま、まるで何も考えていないように足を動かし続けた。

ふと、駅の片隅にぽつんと置いてある一台のピアノが目に入った。雑踏のなか、行き交う人々の音を聞きながらそれはじっと佇んでいる。

私にピアノが弾けたらな、と雪子はぼんやり思う。もし、ピアノが弾けたら言葉なんて不確かなものでは表せないこの感情に、姿を与えることができただろうか。


すっと純白のコートを翻して髪の長い女のひとが雪子の横を通り過ぎた。彼女はためらいなくピアノの前に座り、細く白い指で鍵盤をなでる。

ぽーんと彼女の親指がはねた。それを皮切りに、細い指が白と黒の大地を滑り始める。きらきらした衣装を着てリンクを舞うスケート選手のようだった。彼女の指は縦横無尽に踊り続ける。

人々はせわしなく動いていた時間をはたと止め、駅の片隅から流れてくるピアノの音に耳を傾けた。

「きれいだね」                                「やさしいな」

そうつぶやく人々の音が小さく聞こえる。彼女の弾いている曲は決して激しい曲でも、流行の曲でもない。けれどどこか懐かしく、優しい調べだった。人々はそっと肩を揺らし、そのやすらぎに身を任せている。

(キ・レ・イ? ヤ・サ・シ・イ?)

そんな人々の群れの中で雪子は一人、心の中で首をかしげていた。彼らにとってはこの音がやすらぎを与える音に聞こえているらしい。けれど、雪子はどこか冷たい響きを感じずにはいられなかった。寒いなんて生ぬるいものではない。もっと刺すような冷たさだ。ピアノの一音一音が雪子の心臓の奥に落ちる。

波紋が、広がる。

(痛い。)

が、なぜそんな痛みを感じるのかまるでわからなかった。痛みが感情に起因するなら、その感情はなんだろう。そう思ったとき、女のひとはちらりと雪子に一瞥を投げた。指はまだ、鍵盤の上を走っている。誰も彼女の視線が動いたことに気づいていない。しかし、彼女の瞳は確かに雪子に言った。

「取り繕っても無駄よ。私にはわかる。」

さっと血の気が引くのがわかった。雪子は怖くなって踵を返す。早くこの場から立ち去りたい。その一心で駅から街へとつながる道を一直線に歩く。遠くから拍手が聞こえる。


空気のよどみが少し減り、冷たい風が頬を撫でた。彼女のピアノよりはずっと優しい冷たさだった。彼女には悪いけれど、あの調べには毒がある。私にだけ効く特殊な毒が。

いなくなった友人は「自分一人がいなくなっても…」と言った。しかし、おかげで雪子の世界からはいくつかの音が消え、いくつかの色が消えた。多くの人の世界は恙なく回り続けていても、雪子の世界には狂いが生じた。「私の世界に狂いが生じるから、いなくならないで」と言えたなら、あの人はいなくならなかっただろうか。いや、違う。そんなエゴに満ちた言葉で人が救えるわけがない。…それでも、言うべきだったのだろうか。

再び意味のない巡回をしていることに気づいた雪子は頭をふって、また、歩き始める。このままじゃまずい。このままでは思考の海に投げ出されたまま帰ってこられなくなる。

とん、と何かが肩に触れた。驚いて振り向くと長い髪を優雅に揺らし、あの女が立っていた。ひゅっと自分が息を呑むのが聞こえた。

女は雪子の肩にしなだれかかり、ねっとりとささやいた。

「取り繕っても無駄よ。私はあなたなんだから。」



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