見出し画像

発信にともなう葛藤。

以前「心に残る文章とは何か」について考えた

心に残るとは、忘れないこと。
忘れないためには、考えること。
考えるためには、答えよりも問いが大切であること。

そう、「問い」が大切なんだ。

問いをつくることは、答えを出すことよりも難しい。



仕事で、子どもとの活動が終わったあとに「ふりかえり」をする。その際に「問い」をもとにしたワークを実施するときは、まさに生みの苦しみ。問いによっていい議論が生まれるのか、浅いまま終わってしまうのかが、異なってくる。

10年以上前。
まだ職員じゃなく、ボランティアだった頃。
私の中で深く刺さった問いがある。

今回のキャンプの中で、
子どもが10年後も覚えていることは何ですか?

10年後は、子どもが大人に近づいた時。
はるか遠くの未来で大人になった子どもたちが「あの時さ、こうだったよな」と話していることって、何なんだろう。


もちろん子ども本人ではないので、正解はわからない。

ただこの問いからは「10年後も覚えているような心に刺さる体験を創っていくことが私たちの役割だ」というメッセージが隠されていた。だから、自分の心にも強く残ったのだ。


問いかける人は、自分の考えをもっている。
伝えたいメッセージがある。
だからそれが伝わるように、問いを作ることができるのだ。

私はまだまだ「自分の考え」が弱いのかもしれない。

問いをつくったとして、それに対する自分の考えが弱い。考えが弱いままに問いをつくっているから、その問い自体も弱い。結局何も伝わらない、みたいな感じ。


以前、対話のワークショップに参加したことがある。

教育をテーマとしたワークショップで、参加者がいろいろな問いを持ちより、その問いに興味をもった参加者が集まり、対話をする。

正解を出すことが目的じゃないから、いろんな意見が出る。しかし私は、どんな意見も「わかるなぁ…」と思ってしまうから、はっきりしたことが言えない。
その時の自分の気づきを、メモにこう書き留めていた。

「明確な答えは出さない」と言っても、
いつもモヤモヤしていることがいいわけじゃない。

「自分なりの」答えはもって主張する。
それがないとそもそも対話にならない。

このような場に出ると自分の思いや主張が弱いことに気づかされるとも書いてあって、うわ、成長してないじゃん…


問いは大切。
でもそれに対して自分はどう考える?という部分も大切。

それがあって初めて「みなさんはどう思いますか?」が通用する。
人が考えるきっかけが、そこで初めて生まれる。

自分の考えもはっきりしてないのに、他の人の考えを促そうなんて、おこがましいもいいところだよね。

自分の考えを明確にする。

これが苦手だとしたら「想像力」のせいだ。

せい、なんて書くと想像力が悪者みたいになってしまうけど、違うな。想像力は良くも悪くもなく、使いようなのだ。使いようによって、良い力にも、悪い力にもなる。

「この主張をしたら、誰かが傷つくんじゃないか」

そんな想像力。
確かに必要である。

一方で、それを考えすぎると何も言えなくなる。だから何を言いたいんだかはっきりわからない主張になってしまう。


先週のnoteフェスの一つのセッションで「言葉の暴力性」の話が出た。そもそも言葉は暴力であると。言葉を伝えることは、相手に何らかの圧をかけていることだから、優しい言葉だって暴力になり得ると。

特に印象的だった言葉は下記。

傷つけないってことは、何も言っていないのと同じだよね。

信じたくないようで、本質を突いていると思った。
これは、私に言っているのか…?

結局、誰も傷つけまいと思って発している言葉は誰にも届かないし、何も言っていないことと同じ。
「~かもしれない」「~な気がする」「きっと~だ」という言葉をよく使ってしまうのも、主張を濁したい気持ちからきている。


もちろん、あからさまに傷つける言葉を発信することがいいわけではない。ただ、全ての人の立場に立ち、その気持ちを想像することは不可能。

「傷つけるかもしれない」という想像力は働かせつつも、「でも私はこう思う」という考えをもって、発信していくこと。

それこそが「人に伝わる」ということなんだ。

そういう文章を、やっぱり書きたいんだ。



そんなわけで、今日はここまで。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?