意識をするだけで人生物語が変わる

以前こんな記事を書きました。

ふと目にした人に自分を投影していたということについて書いた内容ですが、この時もう一つ違うことにも気が付いたことがあります。
それがタイトルの、

意識をするだけで人生物語が変わる

ということ。

どういう事かと言うと、たとえば自分の一日を映画や小説と思って捉えてみると、何かを意識して感情が動いた場合と、全く何も意識せず感情に動きがなかった場合で、ストーリーに変化が生まれるということ。

例えば上記の記事で、私は通勤電車に乗って外を眺めているときに一人の女性を意識して自分の中に何かしらの感情が生まれた。これを映画として考えてみると、このシーンでは主人公である私がどのような心境で電車に乗っていたかという情景を表すことが出来る。
映像にするなら、その時の私の表情や見えてる景色をクローズアップしているイメージ。

小説だったら、
「・・・ふと目をやったマンションのベランダの女性が目に映った。彼女を見て、これから仕事に向かう自分がちょっと悲しくなった・・・」
みたいな情景と心情がまざったような文章が書き加えられるイメージ。

もし何も感じていなければ、ただ電車に乗っている映像であり、文章も通勤電車に乗っている描写だけで事足りる。

おそらく日々の中でこのような場面がたくさんあって、それが無数に起こっているから、当たり前の日常のように感じてしまう。
だけど、映画だった場合どうだろう?

元々は主人公の私が何も感じなかったストーリーで作っていたとする。
ところが、急に私ががあることに意識を向けて感情を感じる。
すると、出来上がっていた映像は撮り直しになるし、エキストラとして存在していた人に役柄が出来てしまう可能性まででてくる。
最期のキャストの部分に書き換えの必要さえ生じる。

そう考えたら、ものすごい事が起きたんじゃないかと思った。
幸いにも人生物語はストーリーが変わっても、撮り直しも書き換えもいらない。自由に好きなだけ書き換え可能で、自分だけで完結できる。

本当は同じ毎日などないと頭ではわかっていても、劇的な何かがないと、なかなかそう思うことも難しくなる。
もしくは、そんな劇的なことなどほぼないと思って、感じることすらしなくなってることもある。

心を亡くすと書いて「忙しい」とはよく言ったもので、やることだらけで忙しくなってしまうと、頭の中にはやることリストのことだけで、終わらせるための手順を考えて一日終わってしまうこともあるだろう。

そうなると意識をする余裕すらなくて、目の前に本当は宝があっても気づかずに通り過ぎる毎日になってしまうかもしれない。
もっと言ってしまえば、気づくことすら面倒だと思うことにもなりかねない。
なぜなら、気づいたら無視することが出来なくなるから・・・。

意識したことによって感じる何かが宝なのかどうかはわからないけれど、たとえそれが何だったとしても、多くを意識することによって人生はよりカラフルに彩られ、豊かにしてくれると思う。

もちろん無意識で書き換えてることもたくさんあると思うけど、意識した時点で自分の意志が働いているということを実感することによって、人生がより自分で作っているという感覚になってくる。
それは見えている景色が違うものに見える可能性をも含んでいる。

人は皆素晴らしい脚本家、演出家であり、名俳優なのだ。





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