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予言書「俺を寂しくさせるな」

こんにちは。忘れてはいけないので、文章にすることにしました。

文章を書くのは面倒臭い
しかし書かなくては伝わらない。伝わる速度が違う。いや、伝わる次元がそもそも違う。いくら一緒に生活してたくさん喋ってもその人が書いた文章を読むと知らなかったことが山ほど現れてくる。

閑話休題

ここまで来るのに乗り換え、ミスらなかった?
ええ、ええ。
どんな罪を背負っていようとも、ここにたどり着いた。

家を建てたい

みんなで家を建てたい。
下品で無骨に毎年、増築を繰り返すキメラ。
僕は日本人だなと思います。
最初から左右対称を目指すのではない。
家の中心に「とこ」を据え、そこから増築していく。迷路のようなアスレチックのような、水平も垂直もバカにした家を作りたい。
2016年に僕が手塚太加丸テツカタカマルに連れられて屋久島に1ヶ月暮らしたことが影響している。山に流れる川を飲んで、坂道を行き来して暮らした。朝起きれば水汲みから始まり、火起こしをして、朝ごはんを食べる。これだけで午前中が終わった。「生活」がすべてを占めていた。ただそれが不便ではなく「幸福」であることに気づくのに時間はかからなかった。

3日目の朝に、硬くもなく柔らかくもない完璧なウンコが出た。身体が間違いなく喜んでいる。その確信があって言っている。

「おれたちの暮らしは全部間違っている」

全部だ。申し訳ないけど全部間違っている。こんな強い言葉を使ってしまって申し訳ない。君を傷つける意図はない。お金を出せば車は作れる、だが、俺たちの身体はお金を出しても作れない。だから人間中心であってもいい。子供が転んで怪我をするならアスファルトなんて全部剥がしていい。日本の物流を支えるトラックの運ちゃんをすべて見据えて言っている。

「近所のスーパーに北海道のジャガイモがあるほうがおかしい」

北海道のジャガイモはダイヤモンドのように貴重なのだ。だから我々が北海道に行く必要がある。(北海道のパン屋「どんぐり」でジャガイモ・パンを食べた時ぼくは泣いた)だからその地域の廃材を集めよう。もう使われることのない可哀想な廃棄の材木たち。そこで育ち、太陽の登る方向を知っている木材で家を立てよう。植えられていたときの東西南北を合わせながら。これも手塚太加丸に教えてもらったことだ。海外から石油を使って木材を運んでくることもない。杉の木を切り倒せ、杉の木を滅ぼせ。俺は環境を破壊する。俺が俺であるために。

君の顔が見たい

ぼくは人間の顔というのは公共の福祉だと思っているんですね。人間を幸せにする大事なもの。それは権利だとか世間の潮流とかで制限されないもの。ところがGoogle streetviewでも顔にモザイクがかかり、今ではテレビの報道でも顔にモザイクがかかります。モザイクがかかるのなんて死体と性器と顔だけですよ。おかしくないですか? これを読んでいるあなたがそう思わないのでしたら、きっとおかしいのは僕の方なんでしょうね。少なくとも僕の倫理観に沿って言えば、顔にモザイクをかける行為は、爆弾で近所の水道管を破裂させるのとなんら変わりない公共の福祉の破壊なんですが。そもそも、有名芸能人は別として普通の人間が「顔の権利」を主張するのっておかしくないですか? それってあなたが作ったものではないし、両親のDNAを引き継いだ模造品なわけで。つまり見知らぬ誰かからプレゼント(供託)された預かり品なわけです。たまたまパスされたバスケットボールを誰かにパスしないで、自分の名前を書いてモザイクをかける。これが「正しいこと」だとは僕には到底思えない。

「やさしい社会」を取り違えている。
1995年に戻ってやり直せるタイミングへ。

冒険がしたい

次に冒険がしたい。世界はあまりにも広く、脳に入れるには大きすぎる。もっと世界を冒険して仲間を増やしたい。美術家・遠藤薫に連れられてベトナム北部を冒険できたことは自分の中で大きな礎になっている。そこの人たちは木と竹でできた家に住んでいた。1Fは地面なので2Fは半分に割った竹を敷き詰めた簡単な家だ。床の隙間から1Fが見える。なんだか居心地がいい。このような素晴らしい環境は想像力だけでは辿り着けなかっただろう。キャンピングカーでシルクロードを横断したいねと増沢大輝と約束もしている。

2020年に東京ステーションギャラリーでやっていた展覧会「開校100年 きたれ、バウハウス ―造形教育の基礎―」で衝撃のカリキュラム図に出会った。絵画や工芸、写真にデザインなどがマッピングされたカリキュラムの図だ。その中心部に「建築」がまるで土台のように大きく描かれていた。バウハウスというのは近代における美術大学の嚆矢で、現代の我々からみたら「なーんだ、当たり前のことじゃん」ということを世界で初めて行った最先端大学だ。出会ったときから種が植えられ、じわじわと僕の心の中で育っていった。なぜ、建築を中心に置くのだろう。2年経ってその答えが分かった。建築は生活そのものだ。すべてのものが建築によって規定される。私たちの身体も文化も、寿命も。そのことにようやくたどり着いたときに、編集者・飯田将平の雑誌「NEWTRAL」の荒川修作特集を思い出していた。

バウハウスの原点

菅井早苗と郵送で本の貸し借り「隈研吾の本」を読んでいる。中里龍造から建築の資料もいただいた。家ってなんだ。「◯◯ハウス」が俺の身体には染み込みすぎている。1972年に「軽井沢保養所浅間山荘」にて民主主義が終わった瞬間を僕は見ていない。死んだ家ではなく生きた家は私は毎日目覚めたい。鍵のかかった家ばかりのこの街にもう未練はないから。

子育てがしたい

次にセックスがしたい。この年齢になってくると同級生が子育てしたりしていて、それを手伝うことで子育ての解像度がいかに低かったことが思い知らされる。子育てはもっとずっと適当でいいのだ。子供は運命増幅装置なので、ここからさらに出会いを増やして子供にも「これが僕の生まれてきた意味だったのか」と深い感銘を受けた瞬間を共有したい。そしてなにより結婚して後悔している人はいたとしても、子供を産んで後悔した人に出会ったことがない。どのような小学校を作ればいいのか考えることがたくさんだ。

もう我慢できないでしょう。素晴らしい理念で始まった小学校が、老朽化で人を傷つける施設になっている事実におののく。学校は終わった。職場にも行くな。本物の社会はここにある。会社の上司と一緒にいる時間の方が、愛する人といる時間より長いことを許していいはずがない。許されるわけがない。人間をあまり舐めるなよ。君はおれと一緒にいろ。

ベンチを作りたい

次にベンチを作りたい。家や仲間だけが面白くてもダメなのだ。町がクズだと僕らにもクズが流れ込んでくる。そういったことを防ぐために街に無数のベンチを設置したい。ベンチ・テロリストだ。これは土地が土地を愛すために必須条件。いまの街にはベンチが少なすぎる。道路がただの移動手段と化している。道路は通路ではない、ストリートなのだ。

建築家の大西正紀さん、田中元子さんのプロジェクト。学びと驚きを僕に与えてくれる。死んだ街は「ベンチ」で蘇る。セントピーターズバーグが証明してる。又吉美輪にも増沢大輝にもこの記事を見せた。道路交通法はほとんど間違えている。ルールを決めるものたちに死を。

チャイルドシート義務化でホクホク顔の政治家にうんこを投げつけたい。なるべく下痢に近い状態で。年間十数人の死亡事故は減ったが、車には3つ目のチャイルドシートが取り付けられず、3人目を諦める家庭が増え、年間4000人の子供が産まれなくなりました。おれにとっては殺害するのとなんら変わらない。エアコンの効いた東京で考える法律はさぞ気持ちいいでしょうね。私は許しません。自由を我らに。

小説を書いてもらいたい

次に友達みんなに小説を書いてもらいたい。ワクワクする雑誌が本屋にないのはとても寂しいのでいろんな記憶を辿っていきたい。ほとんどの人は小説を書かないし、書いたとしてもこれが最後になるだろう。あらゆる処女作をかき集めて素人芸の極北を見たい。話すだけでわからないこと、文章だけではわからないこと、小説にして雑誌にしたい。

これはラスト

出会えたことが
気のせいじゃない
それが死ぬほど嬉しい
ラップはマリオカート
どれだけ道を外れるかが勝負。
身体の中に元気ってどれくらい隠れてるんだろう

一緒に幸せになろうね本気
生きやすくするために環境整える
みんなで暮らそう

お尻の中からゲマインシャフト

おまえが隣に座った時ひざから
「おまえのことが好きだぞ」って声が聞こえたんだよね
でも実際は何の意図もなく僕の隣に座ったわけじゃん
人からもらう嬉しいプレゼントはみんな誤配なんだって気付いたの。

それが今日の発見よ。

カイカイキキもファイファイのダンシン
じゃあお前言えんのかニシローランドゴリラの学名
余位さんどーよ俺たちで合ってる?

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