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週末はいつも山小屋にいます#1「月山/清川行人小屋」


■あらすじ

 山で出会った有希と結婚した「私」は、毎週末にふたりで山を歩く、充実した生活を送っていた。しかし、その毎日は東日本大震災で有希を亡くしたことにより一変してしまう。
 再びひとりで山を歩くようになった「私」は、山で様々な人に出会い、それぞれの悲しみや想いを山小屋で語り合う中で、自分の心に触れていく。
 有希への想いを抱え、出会いからの思い出と共に「私」は今日も山を歩く。
 喪失を経験したひとりの男の愛の物語。


■本編

 口之宮湯殿山神社の駐車場に車を止めて出発の準備をする。時刻は午前九時過ぎ。
 登山を開始するには遅い時間だが、今日は頂上を踏まず、途中の清川行人小屋が目的地なので、暗くなる前には余裕を持って到着できる。
 駐車場には私の他に練馬ナンバーのセダンが一台。登山客だろうか。
 目指すのは出羽三山の主峰、月山。
 八方七口の月山登拝道のうちのひとつとして、大いに栄えた真言宗本道寺は、明治の神仏分離令で口之宮湯殿山神社となった。
 頂上の月山神社への登拝客や登山客の多くがリフトのある姥沢や、八合目まで車で登れる羽黒山口ルートに集中するようになった今は、その役割をすっかり終えたかのように、杉の巨木に囲まれてひっそりと佇んでいる。目の前の国道112号線を走る車は、その存在にすら気付いていないかのようにスピードを緩めることもなく通り過ぎていく。
 まだ紅葉には早く、湿度を伴う熱気が残る九月の初めでも、ここの空気は涼やかだ。
 登山靴の紐をひと穴ずつしっかりと引っ張って結ぶ。泊まりの装備が入ったザックを担ぐ。十五キロの重さが肩だけにかからない様に腰のベルトを調整する。
「さて、行くか」
誰に聞かせる訳でもなく呟いた言葉は、風に揺られて杉木立に吸い込まれていった。

 まずは林道の砂利を踏み締めて歩く。焦らずゆっくりと、体を登山という運動に、山の空気に慣らしていく。
 四十分ほど歩くと「登山口」と書かれた小さな看板が現れる。そこからが漸く本格的な登山道だ。
 杉の植林地帯を抜け、汗が額から流れ落ちる頃になるとブナの森だ。
 ブナの森は良い。
 ブナの森にはなぜか清々しさを感じる。落とした葉と張り巡らせた根で清浄な水を蓄えているからか。東北の山の番人であるかのように、名山と呼ばれる山の麓にはブナの森が広がっていて、登山者たちを迎え入れている。
 有希もブナの森が好きだった。ブナの森に入ると必ず両腕を広げ、目を閉じ、上を向いて深呼吸をした。
「んー、気持ち良い」
そう言って後ろを歩く私を振り返って微笑んだ。その顔は今でも思い出すことができる。
 あれから十一年と半年が過ぎた。

 「じゃ、行ってくるね」
 その日、有希はそう言いながら、いつもの白にピンクのラインが入った運動靴を履き、私より早く家を出た。
 岩手県の陸前高田に車椅子を納品しに行くと言って。
 当時は三陸道も開通しておらず、私たちが住む仙台から陸前高田は遠かった。
 平成二十三年三月十一日、早朝の出来事だ。
 私が有希と再会したのはそれから3日後の夕刻。未だに発見されない人のことを思えば、良い方だったのかもしれない。
 遺体安置所となっていた、冷たい風が吹き抜ける小学校の体育館で私が流した涙は、もう会話を交わすこともできないという悲しさと、見つかってくれたという安堵の入り混じったものだった。
 片方だけ残った運動靴が、妙に寂しそうに見えた。
 その靴を見つめていたときの、体育館の窓から鋭角に入る沈みかけた太陽の光が、なぜか感触を伴うように頬に思い出される。
 こうして私たち二人の生活は終わった。出会ってからたったの四年半。
有希は今でも三十五歳のままだ。
 私だけが歳を重ね、五歳の歳の差は十七歳にまで広がった。

 登山道の脇には漢数字が彫られた丸い石が置かれている。丁石だ。ほぼ一丁ごとに置かれ、昔は登拝道の長い道のりの目安となっていた。
 標高千メートル近くになると、三基の墓石と姥像が現れる。
 墓石は行き倒れた人たちのものだと聞いたことがあるが定かではない。
 姥像は、三途の川を渡る前に現れる奪衣婆の信仰だろうか。どれくらい前に置かれたものかは分からないが、多くの登拝者たちを見送ってきはずだ。今は時々現れる登山者を、どんな想いで眺めているのだろう。
 岩根沢コースとの分岐を過ぎると緩やかな尾根道になる。右手の深く削られた谷はサカサ沢。もう少し下流で銅山川と名前を変え、山形県内でも有数の豪雪地帯、肘折温泉に至る。
 私は谷を眺めながら下ろしたザックに腰をかけ、行動食のおにぎりをひとつ腹に入れた。
額や頬の汗を乾かすように流れる風は、街の中のような湿気はなく爽やかだ。
あれだけ煩かったセミの声も、谷間から微かに聞こえてくるだけとなり、代わりに気温の低下に従って里に降りようと狙うトンボが飛び回る。よくお互いにぶつからないものだといつも感心する。
 再びザックを背に歩き出す。
 暑くもなく寒くもない快適なコンディションに押されて、軽快に高度を稼いで行く。
 標高千三百メートルを超えると小さな草原や池塘も現れて高山の雰囲気が増す。しかし月山の山頂はまだ見えない。
 時刻は正午を過ぎた。そろそろどこかで昼食を摂ろう。
 小さな草原から再び樹林帯に入ると、倒木に腰掛けて休憩する登山者がいた。ぐったりと肩を落とし、首を垂れたまま微動だにしない。
「こんにちは」
顔を覗き込みながら声をかけると、男はすぐに反応して顔をあげ、ゆっくりと重そうにまぶたを開けた。
「あ、こんにちは」
思ったよりしっかりした声に安心する。
「大丈夫ですか?怪我でもしましたか?」
男はその問いを慌ててかき消すように、笑いながら「いえいえ大丈夫です」と応えたが、表情は力なく青ざめていた。
 話を聞くと、三十分くらい前から急に力が入らなくなって、ついに座り込んでしまったという。
「シャリバテじゃないですかね」
「シャリ、バテ、ですか?」
 知らないところから察すると、おそらく登山初心者なのだろう。
「ハンガーノックというやつです。簡単に言うと、エネルギー切れですね」
 登山に限らず、長時間運動を続けると低血糖になることがある。そうなると体に力が入らなくなる。それを防ぐために、空腹を感じていなくても定期的におにぎりやパン、羊羹などの糖分になるものを摂っていく。それが行動食だ。
 私は男に持っていた羊羹を渡して食べるように勧め、回復を待つ間、ここで昼食を取ることにした。
 男は佐々木と名乗った。年齢は私より五歳くらい若いだろうか。流行りのカラフルな登山ウェアは真新しく、包まれている体は、普段から運動をしているようには見えない中年体型だ。
「登山はまだ始めたばかりですか?」
顔色が戻ってきた佐々木さんに尋ねてみると、
「はい、始めたばかりというか、今日が初めてなんですよ」
という意外な応えが返ってきた。
 この本道寺コースは片道十キロ以上。初心者なら羽黒山口からか、姥沢からリフトを使うのが常識だ。体力に自信があるなら良いが、普段から運動をしていない人が、初めてでこのコースにチャレンジするのはかなり危険が伴う。
 月山頂上小屋に泊まって、翌日に同じ本道寺コースを下山してくるという計画らしい。
 時刻は午後一時。ここから山頂まで、まだ五キロ弱はあるだろう。しかも森林限界を過ぎると岩が転がる草原の道は不明瞭になる。日が暮れるまでに山頂にたどり着けなければ、そこで遭難する恐れもある。
 一時間が過ぎて、羊羹の他に昼食も摂った佐々木さんはすっかり回復したようで、
「大丈夫です。がんばります。宿も予約してありますから」
と言う。
 しかし私はその危険性を説いて、私と同じ清川行人小屋に泊まることを提案した。山頂小屋には迷惑をかけてしまうことになるが、遭難すれば迷惑では済まない。
 もう少し登れば携帯電話の電波が通じる場所がある。そこから連絡して説明すれば良いと言うと、佐々木さんは「ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」と了解した。
 清川行人小屋には、私の予定時刻から一時間半遅れて到着。あたりは暗くなり始めていた。やはり佐々木さんを頂上に行かせなくて正解だった。

 入り口のドアを開け、登山靴を脱ぐ。ガラスの引き戸を開けて小屋に入ると、佐々木さんは「おお」と驚きの声を上げた。
 昭和三十年頃に建てられた古い小屋ではあるものの、板の間の正面には暖炉があり、半分ほど吹き抜けになっている天井は高い。二階は宿泊スペースとなっていて、木の枝を使った欄干には野趣がある。
 避難小屋の水場は外にあるのが常で、足場の悪い道を十五分下っていくという小屋もあるが、この清川行人小屋は内部に水道のように引かれ、流れるままの水がシンクを勢いよく叩いている。
 故高松宮殿下が宿泊し、春スキーを楽しまれた由緒正しい小屋として登山者には知られており、その格式の高さが、使われなくなったカーテンをまとめる紐の飾りや、トイレの手洗いの陶器に看て取れる。
 私たちは重いザックを下ろすと大きく息を吐き、顔を見合わせて安堵の笑顔を交わした。
 私は早速、流しのシンクにタライを置き、そこに持ってきた二本のビールを漬けた。夕食までには塩梅よく冷えるだろう。
 濡らしたタオルで汗を拭い、楽な格好に着替えると、二階に備え付けの布団や毛布を借り、寝床をしつらえた。
 それから夕食の準備にかかる。佐々木さんは山頂小屋で食事も頼んでいたようで、持っていた食料は少なかったが、私はいつも何かあったときのために余分に持ち歩いているので、明日の行動食まで含めても問題はなさそうだ。
「何から何まですいません」
 佐々木さんは恐縮していたが「今が何かあったときなんですよ」と私が言うと、改めて頭を下げて礼をした。

 小さなランタンの明かりの下、飯盒で炊いたご飯の炊き上がりは上々だった。さらにお湯を沸かしてドライフードのカレーをかけた。冷やしておいたビールを持って、私たちは小さく乾杯をした。
 飲みながら私は、気になっていたことを聞いてみた。
「どうして初めての登山で月山のこのコースなんですか?」
「いやぁ、本当に申し訳ないです、ご迷惑をおかけして」
「いやいや、違うんですよ。怒っているわけではないんです。ただ不思議だったので」
 純粋な登山のみならず、観光や参詣で登る人が多い月山とはいえ、それは限られたコースからだ。登山者の中には、この本道寺コースの存在すら知らない人も少なくない。
「実は、これなんですよ」
 そう言って佐々木さんが私に見せたのは、小さな動画用のカメラだった。
「そういえば帽子に着けてましたね。動画サイトに上げるためですか?」
「いえいえ、違うんですよ。父に見せるためなんです」
 私は意味がわからず、次の言葉を待った。
「もう、長くないんですよ」
 佐々木さんは寂しそうに笑い、話し始めた。

 父は僕たちが独立してから登山を始めましてね。定年前だから五十代の後半かな。それからすっかり夢中になって、あちこちの山に登りに行ってました。その中でも好きだったのが月山だったんですよね。月山は良い、月山は良いっていつも言ってましたよ。何がそんなに良いのかって聞いても、とにかく月山は良いってそればっかりで。
 僕や妹も八王子の実家に帰って顔を合わせると誘われてました、一緒に行こうって。僕たちはそれをいつも断ってたんですよね。今は仕事が忙しいからとか、休みの日は子供の面倒を見なければいけないとか言ってね。
 それが今年の初め、七十歳になったところで癌が見つかりました。胃癌のステージ4でした。もうあちこちに転移してましてね、医者は手術もできないと。抗がん剤治療をして、一時は良くなったと思ったんですが、梅雨になる頃から悪化しました。今はまた入院して、痛みを取り除く治療をしています。もうそれしかできないってことですよね。
 父ももう死期を悟っています。見舞いに行くと頑張って笑顔を見せてね、何の悔いもないから悲しまなくて良いぞ、なんて言うんです。
 ところが一ヶ月くらい前ですかね、窓の外を眺めながらね、月山の本道寺コースを歩いていないのが心残りだなって呟いたんですよ。
 その日、家に帰ってからインターネットで本道寺コースを調べてみました。長いコースで、初心者には厳しいというのはすぐに理解しました。その最中に、登山している様子を撮影した動画を見つけたんですよ。
 これだ、と思いましたね。僕がカメラを着けてこのコースを歩けば、少しは歩いた気分にさせられるんじゃないかと。
 朝早く出発すれば、暗くなる前に登頂できると思ったんですが・・・。
「結果はこの通りです。ははは」
そう言って佐々木さんは自虐的に笑った。

 翌日も快晴だった。私たちは薄明りの中、山頂を目指して清川行人小屋を出発した。
 動画用の小さなカメラを帽子に着けた佐々木さんを先頭に歩く。私は後ろから歩き方についてアドバイスをする。腿の付け根からではなく、骨盤から動かすように足を出す。歩幅は狭くて良い。ベタ足で体重やザックの重みを足の裏全体で受け止めるように、と。
 万年雪から流れ出す東沢を渡渉すると、やや急な登り坂となる。小さな岩を階段のように登る場所もあるが歩きづらくはない。なるべく段差の少ない場所をつなぐようにして登れば疲労も軽減できる。
「歩き方でだいぶ違いますね」
佐々木さんは山の歩き方に慣れてきたようだ。このペースなら今日は問題ないだろう。
「え、あれ雪ですよね。九月なのにもう降ったんですか」
佐々木さんが左上の斜面を指差して言う。
「いや、あれは万年雪ですよ。あの雪が溶けて、さっき渡った沢になってます」
「じゃあ、一年中雪があるってことですか。凄いなぁ」
「佐々木さん、後ろを向いてみてください」
 眼下にポツンと小さくなった清川行人小屋が、私たちを見送っているように見える。
「もうこんなに歩いてきたんですね」
 小屋の後ろには少し霞んだ蔵王連峰。左手にはどっしりとした存在感で、地元の人々に親しまれている信仰の山、葉山が鎮座している。
 その向こうにはまだ目覚めたばかりの山形や天童、寒河江の市街地。時折吹く風が、優しく草原を撫でる。その度に朝日を反射した草たちが嬉しそうに体を揺らす。葉擦れの音が止むと、辺りはまた静けさを取り戻す。
 標高を上げていくと、左上に見えていた万年雪は同じ高さになり、やがて下に見えるようになった。そしてその雪を抱えた台地の向こうに、朝日連峰の雄大な山並みが現れてきた。
 このあたりまで来ると登り坂も緩み、ひと心地つくことができる。出発から二時間が過ぎていたので、ここで休憩することにした。
 草原にザックを下ろし、そこに腰掛ける。佐々木さんも私の真似をして腰を下ろす。
 しっかりと水分を補給しながら、昨日の夜に炊いたご飯で作ったおにぎりを一つずつ腹に入れる。
「あの左の奥の方に見えている尖った山が大朝日岳です。そこからずっと右に行って、大きな塊のように見える山が以東岳ですね」
 山の名前を言われても、佐々木さんには分からないだろうと知りつつ、私は指を差しながら、見える山々の名前を並べていった。
 それは始めて私がここを歩いた時に有希がしてくれたことで、その時はどれも初めて聞く名前ばかりだったが、今はその多くに登頂を果たした。
 有希と登った山もたくさんあるが、ひとりになってから登った山の方が多いかもしれない。
「良いですねぇ」
 佐々木さんが、私に話しかけるでもなく、目を細めて遠くの山々を眺めながら呟く。
「良いでしょう」
 私も同じ方向を見ながら応える。清川行人小屋はまだ見えているが、指でつまめてしまえるのではないかと思わせるくらい小さい。
 遠くで鳥の鳴き声が聞こえ、それが止むとまた静寂の世界に戻る。
「父はこういう風景を僕たちに見せたかったんでしょうね」
 私はその呟きに、少し考えてこう応えた。
「そうですね、そして一緒に見たかったんだと思いますよ」
 人は素晴らしい景色を見ると、大事な人にも見せたと思うと同時に、一緒に見たいと思う。それは有希を失ってから私が感じるようになったことだ。
 同じ方向を見て、同じ風景を見て、同じように感動する。それは、相手が感じていることを確信できる瞬間だ。
 人は、相手がどんなに言葉を重ねて自分の気持ちを説いたとしても、それを確信することはできない。どんなに愛していると伝えても、それが伝わっているのかを確かめる術はない。ただ信じるか、いつも不安を感じるか、そのどちらかしかない。
 しかし一緒に山の素晴らしい風景を見た時、相手も同じ気持ちだろうということが確信に近いかたちで得られる。
 私と有希は四年半という短い間に、いくつもの山に登った。どこまでも伸びるように見える夏の朝日連峰の縦走路。飯豊という山域に立ち入る資格を持っているか試すように立ちはだかる、紅葉が始まったばかりのダイグラ尾根。ナイトハイクで朝日を待った雪の蔵王連峰。
 その時見た風景、感動は今でも忘れないし、有希の輝くような横顔は脳裏に焼き付いている。
 この風景を一緒に見たいと思い、苦しい思いを共有して達することで、私たちは気持ちを確かめ合っていたように思う。
 そしてそれは、永遠に続くものだと思っていた。
 ふと佐々木さんの横顔を見ると、頬につうっと流れる涙の筋があった。
「なんで一緒に登ってあげられなかったかなぁ。忙しいなんて言い訳なんですよ。父と出かけるというのが照れ臭かったというか。いや、正直に言えばただ面倒だったんですよね」
 佐々木さんの涙を乾かすように私たちの間を風が流れる。
「これから山を見るたびに父のことを思い出すんだろうなぁ。そして今みたいに後悔すると思います。まぁ、罰ですよね」
「いや、プレゼントじゃないですか、お父さんからの」
「プレゼントですか」
佐々木さんが不思議そうに次の言葉を促す。
「今、佐々木さんはお父さんの気持ちを受け取ったじゃないですか。これからお父さんが登ったのと同じ山に登って、気持ちを共有していけば良い。その度に、お父さんの愛情を感じることができるでしょう」
「なるほど、そう考えると気持ちが少し楽になりますね。ありがとうございます。ということは、また山に登らないといけませんね。大変だなぁ」
 佐々木さんは袖で涙を拭いながら笑顔を見せた。
「そのウェアに登山靴、安くはなかったでしょう」
 私は真新しいスカルパの登山靴を指差して言った。
「そうですね、ザックも合わせて八万円とちょっと」
「それじゃ、少なくともその分は元を取らないと」
 私たちは顔を見合わせて笑った。

 さらに百メートルほど標高を上げると、草原の中にひと抱えから背丈以上の大きさまで、大小様々な大きさの岩が転がる風景が広がってきた。
 やがて微かな水音が聞こえ、小さな沢を跨ぐ。
「これ何ですか?この風車みたいな草は」
 佐々木さんが指差した足元にはチングルマの群生があった。すっかり花びらは落ち、果穂が広がった様子は、赤茶色い綿毛の風車のように見える。
「チングルマという高山植物です。白い花びらに黄色い雄しべの綺麗な花が咲くんですよ」
 チングルマは足元から視界の先まで、岩の間を埋め尽くすように広がっていた。ここは花の季節に来れば圧巻かもしれない。
「他の山では六月から七月に咲く花なんですが、このあたりは雪が深いから八月頃かな」
「あ、これですか」
佐々木さんが何か見つけたように大岩の根元を指差した。そこには小さなチングルマが一輪だけ白い花弁を広げていた。
「そうです、そうです。そこだけ雪が最後まで残っていたのかもしれませんね」
「綺麗ですねぇ」
 佐々木さんはしゃがんで覗き込むようにして、小さく可憐なチングルマをカメラに収めた。
「お父さんも喜ぶと思いますよ。きっと毎年どこかの山で見ていたはずですから」
「良い土産ができました」

 大雪城と呼ばれる雪渓は季節が進んでかなり小さくなっていたが、それでも三人のスキーヤーが夏スキーを楽しんでいた。
「この季節にスキーですか」
 佐々木さんは驚いていたが、月山スキー場のリフトは四月オープンなんですよと言うと、さらに不思議そうに感嘆の声をあげた。豪雪地帯の月山のリフトは、真冬になると雪に埋まってしまうのだ。その代わり、春から夏にかけて季節外れのスキーを楽しむことができる。
 大雪城を過ぎると佐々木さんの表情に疲れが見えてきた。出発から約四時間。コースタイムに比べるとゆっくりではあるものの、初めての登山では仕方がないし、前日の疲れもある。
 このペースで山頂から再び本道寺コースを下ると、下山する前に暗くなってしまうだろう。そこで、山頂からは姥沢に下りることにした。山頂から三時間くらいで下りられるだろう。そこからは西川町営バスで本道寺に戻ることができる。
 佐々木さんに計画変更を伝えると「僕のためにすいません」と恐縮していたが、私も違うコースで下りる方が気分が楽だ。
 やがて転がる岩の大きさが大きくなる。はっきりした踏み跡の道ではないので、ロープや岩に赤や黄色のペンキで記した矢印に従って歩くと胎内岩に着いた。
 胎内岩の周りにはたくさんの石碑が積まれている。書かれている文字の意味を読み解く知識はないが、これらの石をここまで運ぶ苦労を考えると、石碑を持ってきた人々の思いが窺い知れる。
「生まれ変わりの山って言われているんですよね」
そう、出羽三山を巡ることは、生まれ変わりの旅と言われている。
 現世の羽黒山、死後の世界の月山、そして未来を表す湯殿山。千年以上の昔から、多くの人々がそれぞれの思いや祈りを胸に歩いてきた道だ。
「それなら父も良い生まれ変わりができるでしょうね。あれだけ月山が好きだったんだから」
 私は「そうですね」と応えながら有希のことを思った。有希は生まれ変われたのだろうか。突然放り込まれた死後の世界に迷ったままになってはいないだろうか。
 私は元来、信心深い方ではない。死後の世界や生まれ変わりを信じてこなかった。それを信じる人たちの気持ちが理解できなかった。
 しかし今なら解る。有希が幸せに生まれ変わっていることを願わずにはいられない。
 最後は頂上に向かって、少しの間斜度が上がる。苦しそうな表情の佐々木さんのペースに合わせながら時々足を止める。時間はあるから焦らなくて良いですよと声をかける。大岩の間を縫うように、最後の短い急登を凌ぎ切ると、一段高くなったところに鎮座する月山神社が見えてきた。
「佐々木さん、見えましたよ。もうすぐ頂上です」
 平坦になった道を散歩するように歩いていくと、漸く佐々木さんの顔に笑顔が戻った。
 姥沢からの登山道に合流すると、今までの静けさが嘘のようにたくさんの登山者が行き交っていた。
 それぞれがザックにつけた熊鈴の音があちこちで様々な音程を響かせる。登頂した嬉しさで声が大きくなった登山者たちの笑い合う声が聞こえてくる。
 まずは山頂小屋に寄り、佐々木さんは昨日のキャンセルを詫びた。
 山小屋の主人は「遭難しなくてなによりですよ」と言って怒ることはなかったが、自分の実力に合わせた計画で登山を楽しんでくださいと釘を刺すことを忘れなかった。
 それから月山神社にお参りをして御朱印を求めた。その御朱印をじっくりと眺めながら、
「なんだかやっと登頂した実感が湧いてきましたよ」
と佐々木さんは笑顔を見せた。
「初めての登山で本道寺コースを登り切ったんですから、自信を持って良いですよ」
 それは嘘偽りのない言葉で、少なくとも今日のような歩き方ができれば、十時間くらいの登山はできるだろう。
 それから私は登山道を外れ、月山神社を眺められる場所に佐々木さんを案内した。月山神社を支える、富士山の裾野のような斜面の向こうに雄大な鳥海山が見えた。
「佐々木さんは運が良いですよ。月山でこんなにすっきりと眺望が得られる日は少ないですから」
「親孝行をしようと思ったご褒美でしょうかね」
「それじゃ御相伴に与れた私も運が良い」
 帰りは向こうに下りますと、私は姥沢の方面を指差した。
 青々とした柴灯森、姥ヶ岳に向かってクッキリとした登山道が続いている。その向こうには伏した牛の背中のような湯殿山。そして幾重にも連なる山々の尾根。
 いつまででも眺めていられる風景だ。
 私たちはそこで非常用に持っていたアルファ米の五目ご飯で、少し早い昼食を摂った。それからのんびりとコーヒーを飲みながら、改めて絶景を味わい、山頂を後にした。

 子供たちの絵でラッピングされた、町営の小さなマイクロバスに揺られて本道寺コースの登山口である、口之宮湯殿山神社に着いたのは午後三時頃だった。
 お礼がしたいので住所を教えてくださいという佐々木さんに、過剰なお礼を送られても困るので、私はメールアドレスだけ教えた。
「これからも登山を続けるなら、分からないことも出てくるでしょう。そしたら連絡ください。何かアドバイスできると思うので」
「本当にありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいのやら」
「いやいや、私も親孝行の御相伴で絶景を楽しめましたから」
 それから私たちは口之宮湯殿山神社にお礼参りをして、それぞれの帰路についた。
 そして一週間後、佐々木さんからメールが届いた。

 その節はありがとうございました。
 昨日、父が他界しました。眠るように穏やかな最期でした。
 動画は下山した翌日に見せることができました。父は喜んでいましたが、本当にお前が登ったのかと、俄には信じてもらえませんでした。動画を見せながら説明していたら信じてもらえましたが、ずっと驚いた様子でした。
 登る途中に見た朝日連峰には特に喜んでいました。休憩しながら見たあの景色です。父は大朝日岳や以東岳にも登ったことがあるそうです。もう一度登りたかったと笑っていました。
 動画を見ながら、父と感動を共有できたと思います。
 父に言われて、実家の押入れから日記を出してきました。そこには父がこれまで登った山の記録が書かれていました。残念ながら、その日記を読みながら父に質問する時間は残されていませんでしたが、この日記がこれからの僕の登山の道標になると思います。
 またどこかの山でお会いしましょう。その時には迷惑をかけないペースで歩けるようにトレーニングしておきます。

つづく

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