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梅雨のはなし 著:ユキヒロ


6月5日 雨ときどき曇り。

近所にある喫茶店の中から私は窓を見つめている。
窓をつたって下へ落ちていく雨の雫を目で追いながら、私の意識は別の場所にある。

梅雨。
私はどちらかと言えば梅雨は嫌いなほうだ。
けど、そんな梅雨にも憎めない部分がある。

雨が降った後に架かる虹。
水色や紫色の紫陽花。
傘から聴こえる雨音。
雨が降る前の匂い。
そして雨が降り止んだ後の匂い。

どんなに嫌っても、梅雨は憎みきれない。

私は喫茶店で何をするのか。
正直に言ってしまえば自分でもよくわからない。
何を求めてここへ来るのか。

今日も店内には1980年代のBluesが流れている。
それが誰なのかも私は知らない。

私は窓から手元のテーブルに視線を戻した。
目の前にある一杯のコーヒーを見つめながら、最近のことをあれやこれやと考える。

今年で38歳になる私は、手の皺が増えてきたことに対する絶望感を隠せないでいる。
ふと視界に入った自分の手ですら今は不快に感じてしまう。

カランカランコロン。
喫茶店のドアに掛けられているベルの音が店内に鳴り響いた。

私は無意識のまま音の鳴る方へと視線を移す。
そこには1人の老婦人が立っていた。
その老婦人は左手に杖を持ち、その杖に寄りかかるようにして立っている。

マスターが老婦人の元へと近寄り、接客を始める。

一瞬。
老婦人と目が合ったような気がして、私は少し慌てながら視線を自分の手元へと戻した。

軽く深呼吸をして、落ち着きを取り戻す。

それから暫くの間、私は意識を違う場所に置きながら、ただぼーっとコーヒーを見つめていた。

「悩んでいるね」
ビクッと私の肩が一度震える。

声のした方へと顔を向けると、先程店に入ってきた老婦人が立っていた。

「一緒していいかい?」
老婦人は僅かに笑みを浮かべながらそう言って、私の返事を待つことなく椅子に腰掛けた。

「...はい。どうぞ」
私は一応小声で返事を返す。

「悩んでいるんだろ。その悩み、ちょいとこの老ぼれに聞かせておくれ」

「はぁ、はい」
私は呆れたような声で返事をした。
どこの誰かもわからない初対面の老婦人に自分の悩みを話してどうなる。
そんなことを思いながらも仕方なく話すことにした。

「実は私、作家なんです」
「詩かい?小説かい?絵かい?」
老婦人は私がまだひとことしか話していないにも関わらず、話しに割り込んできた。

「小説です」
そう言って私は少しばかり間を置いた。
老婦人がまた割り込んでくると思ったからだ。
しかし、その私の優しさは裏切られる。
老婦人は目を輝かせながら私の方をただ黙って見つめていた。
私はもう変な気遣いをするのはよそうと決めて、話を続けることにした。

「私は小説家なんです。ただ、売れないという言葉が前に付きます。そう、無名作家というやつです」
一呼吸。
これから話す内容を思考が先回りしてくれたお陰で、私は軽いため息をついた。

「24歳の時から小説を書き始めたので、今年で14年になります。長いようで短かった14年間です。私、小説家をやめようと思っています」
自分で言っておきながら、その言葉はこの場にいる私にひどく突き刺さった。

老婦人は少し目を細めながらまだ私を見つめている。

「もういいかなって。自分の中で折り合いがついてしまったんです」
嘘だ。
今、私は初対面の人を相手に嘘をついた。

「あんたはやめないよ」
唐突に老婦人は言った。

「はい?」
私は咄嗟に聞き返してしまう。

「あんたはこの先もずーとやめないよ」
老婦人は当たり前の自然現象を幼い子供に説明するかのように、さらっと言い放った。

私はどこか他人事のように言い放たれたその言葉に不快感を露わにした。
「あなたに何がわかるんですか」
言葉を発した瞬間に私は後悔する。
そう、この人にとっては他人事で当たり前なのだ。
私とこの人はついさっき初めて出会ったばかりなのだから。

「すいません」
私は力のない声で謝罪する。

「疲れたかい?」
「はい」
「何に疲れたんだい?」
その問いかけに対して、私はすぐに返事をすることが出来なかった。

数十秒ほど思考を巡らせた。
「そうですね。たぶん歩き疲れたんだと思います。14年間ずっと歩いてきました。ドロドロとした沼のような場所を、夜にずっと歩いているようでした」
「小説とはそんなにも辛いもんかい?」
私と老婦人は目を合わせたまま。
数秒の間ただじっと、時だけが過ぎていきました。
店の外から雨足が強まった音が聞こえてきます。

「いえ。小説とは決してそのようなものではありません。人に感動や勇気を与えて、人の感情を揺さぶる。人は感情を学び、見えない感情を理解するために考える。小説とはそういったものです」
「じゃあ、なぜそんなに辛そうにしているんだい?」

「孤独...ですかね。私は小説を書きます。その小説が世に出ます。そして、また小説を書きます。その繰り返しの中に変化が無く、ただ1人で歩いているような感覚に襲われるんです」
私は初対面の人に何を言っているんだろう。

老婦人は私の言葉を聞き終えると、持っている鞄から一冊の本を取り出しました。
私はその本を見るよりも先に鞄のショルダーベルトにつけらたキーホルダーに目がいきました。
ロケットのロゴが入ったキーホルダーが2つ。赤いロケットと青いロケットです。
歳のわりに可愛らしいキーホルダーをつけているんだなと、一瞬思考が浮遊しました。

「この本は...」
私が思考浮遊していると、老婦人が本に軽く手を乗せながら話しはじめました。
「この本は私にとってとても大切な一冊でね。幼い頃に読んでからずっと持ち歩いている」
「ずっとですか?」
私は少し驚いて老婦人に聞き返す。
すると老婦人は何も言わずに一度だけ首を縦に振った。
「私にとって大切なものがこの本には沢山つまっている。そして私はこの本と共に人生を歩んできたんだ。ずっとね」
老婦人は私の方を見ながらも、どこか遠くを見つめているようでした。
「何という本ですか?私も本は沢山読んできました。有名な本なら私も知っているかもしれません」
「いや、あんたは知らない。そして私はあんたにこの本は教えない」
「なぜです?」
私はまた少し不快感を露わにした。

「そうさね。それはまた別の話だからだね」
老婦人はそう言うと、急に大声で笑い出した。
「あー、いやすまないねー。私にとってはとても面白い状況だったもんでね」
目頭からこぼれ落ちようとしている涙を人差し指で払いながら、老婦人は言った。

「話を戻そう。この本について1つだけあんたに教えてあげるよ。この本は決して有名ではないし、全く売れなかった」
老婦人はさっきとは打って変わって真剣な表情で話しを続ける。
「私は幼い頃に偶然この本と出会った。世の中に存在する2億冊の本の中から私はこの本に出会ったのさ。そして読んで、心躍らせたんだ。初めて読んだ日の夜は興奮して眠れなかったほどさ」
老婦人は会話を始めた頃のように目を輝かせていた。

「わかるかい?いつ、誰があんたの小説と出会うかわからない。そして、あんたの小説がいつ、誰の心に触れるかわからない」
「今はまだその時じゃないとおっしゃりたいのですね?」
「いーや違う。わかっちゃいないねー」
「なんなんですか」
「いいかい。よく聞きな。今はその時じゃない、じゃないんだ。あんたが今はまだ知らないだけなんだよ。あんたの小説はもう既に誰かの心に触れているかもしれないんだ」

その言葉を聞いて、私は息が詰まりました。
全身に鳥肌が立ち、そして私の目には熱い涙が溢れてきました。
人差し指でそれを払うことも出来ず、私は目から涙をこぼしました。

「いいかい。あんた、何で小説家になったんだい?小説が好きだからなんだろ?だったらその好きな小説をあんたが信じないでどうするんだい。好きで好きでたまらない気持ちをあんたが信じないでどうするのさ」
「...うん。うん、うん。」
私は泣きじゃくりながらもしっかりと老婦人を見つめながら、ただただそう言って首を縦に振り続けました。

「あんた。今までどれだけの小説を書いたんだい?」
「きゅ、んっ。9冊です」
泣きながら答えた。
「いくつかは売れたんだろ?」
私はただただ首を縦に振って答えました。
「だったら、ワクワクしないでどうするんだい。それだけの人が自分の小説を読んでくれたんだよ。自分が好きで好きでたまらない小説を、自分で書いて、それを読んでくれている人がいる。まずそれを喜ばなくてどうするんだい」

老婦人は本を優しく撫でながら話し続けた。
「人間は食っていかなきゃならない。その為にはお金が必要だ。お金が無いと人間は心のどこかに焦りや不安や恐怖をかかえてしまう。その感情が目を曇らせてしまう時がある。
人間は変化を好む。それも夢や目標を持つ者にとっては変化がやり甲斐に繋がる。だから変化が無い道をただ歩く時は、自分がどこへ向かって歩いているのかをしっかり胸に刻み込んでおく必要があるんだよ。
夢に向かって歩いている途中、夢を叶えるために色んな努力が必要になる。
努力なんてもんは辛いだけさ。
だからこそ、その努力は何のためにしているのか、夢を叶えるために、目標に辿り着くためにしていることを忘れてはいけないんだよ」
流れていた涙が枯れかけて、目から落ちる涙が無くなった私はただまっすぐに老婦人を見つめていました。

「わたし...。私はっ、私は小説が好きです。私は小説が書きたい。私の小説が誰かの心に触れて、その人の感情に触れてほしい」
「わかってる。わかってるよ」
老婦人は大切にしている本から手を放すと、そっとその手を私の手に添えてくれました。

その手には、私の手の何倍もの皺が刻まれていました。
そして何倍もの温もりを持っています。
私はその温もりを胸に大切にしまいました。

「さて、せっかくのコーヒーが冷めちまうよ」
老婦人はそう言うと杖に体重をかけながら椅子から立ち上がり、元居た席へと戻っていきました。

私はその後ろ姿を引き止めることはしませんでした。
大切なことを教えてくれたその人がこの席を立ったことに意味があるように感じたからです。
「あんたはもう大丈夫。後は自分で何とかできる」
最後にそう言ってくれているように感じました。

私は再び目の前のコーヒーを見つめて、数分ほど思考を巡らせました。
けれども、もう答えは出ていました。

私は席を立ち、老婦人にひとことお礼を言って、喫茶店を後にしました。

帰り道。
雨が止んだ後の匂いに包まれながら、紫陽花の咲く道を。
私は少し心を躍らせながら歩いて帰るのでした。

エピローグ 「そしてこれから」

今でも忘れられません。
あの日、あの喫茶店で、名前も知らないあの老婦人と出会うことが無ければ、今の私は居ないと思います。
感謝の気持ちでいっぱいです。

あれから8年が経ちました。
今日は私の新刊が発売される日です。

私は相変わらず売れない小説家をしています。
けれど、もう私は迷いません。

サイン会の会場である小さな本屋に到着した私は、会場となる角のスペースに用意された椅子に座りました。

今回私が書いた新刊には、あの老婦人をモデルとした魔法使いが登場します。
私は皮肉の意味を込めてその魔法使いの決め台詞を「それはまた別の話」にしました。
あの時突然された大笑いと、本のタイトルを教えてくれなかったことに対するちょっとした皮肉です。

何人かの人が来てくれました。
私はその人たちに目一杯感謝の気持ちを伝えました。

もうそろそろ頃合いかなと思い席を立とうとした時です。
1人の少女が私の方へと近づいて来たのです。
その少女は私の座っている席に到着すると、私の新刊を開いて差し出しました。

私は本の見返しにサインをします。
そしてその少女に感謝の気持ちを伝えました。
その少女は私の気持ちに笑顔で答えながら、私の新刊をポーチにしまっています。

私はそのポーチにつけられたキーホルダーを見て鳥肌が立ちました。
あの老婦人が鞄につけていたキーホルダーと全く同じだったからです。
赤と青のロケット。全く同じです。

私が呆気にとられている間に少女は走っていってしまいました。

その日の夜。

私は部屋のクローゼットから1つの折り畳まれた紙切れを取り出しました。

これはあの老婦人から貰ったものです。
最後に挨拶をしたときに握らされていました。

紙切れの表面にはこう書かれています。
「今度私と会ったときに見なさい」

私はこの言葉をそのまま今まで守ってきました。

そして今日、老婦人と同じキーホルダーをつけた鞄を持った少女と出会ったのです。

私はまさかと思いながらも紙切れを読むことにしました。

そこにはこう書かれていました。

ー元気にしてるかい?これを読んでいるということは今日幼い頃の私に出会ったんだね。
そうだよ。それは私さ。
私はあんたの書いた小説に心躍らされたんだ。今でも宝物さ。
私はあの日この世からお別れをしたんだよ。
最後に何故かあの日のあそに居た。
今カウンターでこの手紙を書いている。
あんたと話して私が最後に何故あの日に居たのか、すぐに理解したよ。
あんたのあんな顔は見ちゃいられないからね。
今もまだ売れない小説家だね。けど、大丈夫。
あんたは立派な小説家だよ。
ひとついいことを教えてあげるよ。
私がこの本を好きな理由の1つさ。
それはね、独り占めしている感じがするからだよ。売れなかったからね。
けど、独り占めできたのはこの本までさ。
おっと、それはまた別の話。
健康には気をつけて元気にやるんだよ。
新刊楽しみにしているからね。ー

紙切れに書かれた手紙を読み終えた私は、それを握りしめたまま、あの日のように泣きじゃくりました。


おしまい

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