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私にとっての最上の創作物

表現物の場合は

【作者が感じ、表現したい事が、全くロス無くそのまま他者に伝わるもの】

さらに

【作者ですら気づかなかったものが作品に乗り、相手に伝わるもの】

・・・です。

それが私にとっての理想です。それは作品という物体ではなく「新しい生き物」のようなものです。

そういうものは、伝えたい100が相手にも100伝わってお終いではなく、伝わった何かは、伝わった人の内部でさらに育ち、そしてさらに多くの人に拡散されます。

作者としてはそのような作品を目指して日々活動するわけですが、当然簡単ではありません。制作した当人は毎度「これに関してはこれ以上出来ない!」と思う地点までやるのですが、だからといってそれが上記のような作品になるとは限りません。

困った事に、人為と人工物の良し悪しは結果論でしか判断出来ないので、その判断には時間がかかります。時に数十年、数百年かかる事もあります。その作品がどのような性質を持つものになるのかは作品が出来上がったばかりの時には誰にも分からないのです。

何かしら新しい作品を制作した際に、出来上がって即座に社会から評価されるものもありますし、時間を経て理解されるものもあります。制作した当人すら、出来上がったばかりの時には分からず、時間が経ってから自分自身でも理解出来た、なんて事も起こります。一時期は世の中の主流で最終結論のように思われていたものが、時代を経てただの古い形式のひとつになってしまう事もありますし、長い時間評価の無かった作品がある時から理解され、その後の数百年ずっと美の花を咲かせているものもあります。

いわゆる芸術作品に限らず、人為と人工物の世界・・・ようするに人が生み出すあらゆる物事・・・は、本当にややこしいですね。

このような問題で難しいのは、技や知識を極めた第一級のプロだからといって、そのような「最上」のものが出来るとは限らない事です。

私はいつもこのnoteに書いておりますが「美を意図して現出させる事は出来ない」からです。

・・・時折、アマチュアの人が、むしろプロでは出来ないような実に素直で直接的な表現物を制作する事があります。そのような作品に出会うと私は感銘を受けます。それは、第一級のプロが制作した表現物の中の良作と同等か、時にそれを超えます。それは技術が見えない「ただそれである」作品です。いわゆるアウトサイダーアートの分野にも時折そのようなものがあります。

プロは、その作品にその作者の心情が色濃く乗った良作を生み出せたとしても、どこかで「仕事としてまとめてしまう」「技術を見せてしまう」ものです。そこに職人芸としての魅力があり、それを愛でるのは楽しいですが、表現物としては独特の「あざとさ」が臭ってしまい、品格の点においては最上にならない事が多いものです。

しかし、プロはそういう面が無いと良作を安定して生み出せないわけですから、第一級のプロの場合は「高い技術と知識と経験を持つプロだからこその良さ」と「経験と知識によって感性に慣れが溜まる=それゆえに失うもの」の間で、もがく事になります。

上記のように、アマチュアの人は時にプロには出来ない素晴らしい作品を制作するのですが、同じレベルのものを再度意図してつくる事は、ほぼ出来ません。だからアマチュアなのであり、その名品は「偶然の産物」です。

しかし、そこに美が宿っていれば、それは素晴らしいものです。それはプロもアマもありません。

私は、一般の人でも一生の間に物凄い創作物を三点ぐらい制作する、と思っています。しかしそれは偶然の産物なので、それ以上は、やはり資質と才能があり、さらに技術や精神を鍛えた人でないと難しいのです。

もちろんプロであっても、いつでもそのような作品を作れる訳ではありませんが「それを意図して制作し実現する確率がアマチュアよりは高い」のは当然です。

アマチュアは「より良いものを制作しようと意図するとむしろ悪くなる」のが特徴です。プロは「制作する度に良くなる」からプロなのです。

創作全般についての私の理想は、

【自分にふさわしい技術を完全に習得し、それを意識することなく呼吸するかのように自然に、その「呼吸」で表現・制作出来る事。表現と技術が完全に一体になっている事

です。

例えば、私のメインの生業の“後染め”の染色作品制作なら(布に色や文様を染める事)

【この染物は、織り上がった時からこうだったのではないか?と錯覚してしまうようなもの】

が理想です。

“後染め”は、上記の通り、基本的には何も描かれていない白生地に色を染め文様を描くわけですからその作品からは「染められた布、描かれた文様」と感じるわけですが、しかし布の特性と色と文様と表現が分離無く一体化していると、イメージとしては「この布が織り上がった時点で、最初からこうなっていたのではないか?」と感じてしまい「染とか織とかではない、ただ魅力的な布だと感じてしまう」という意味です。

「鑑賞者に分析される前に、核心が鑑賞者に届く」事が大切です。

日本の美意識では・・・昔の美意識では、そういうものを最上としました。私の見解では、古今東西、極上のものは分野を問わず皆そうなっています。ですから、私はそれを目指したい。それは技術的に細かいとかザックリしたユルいものだとか、そういう「作風・芸風」とは関係ありません。どんなに超絶技巧のものであっても表現と技術が完全に一体となっているものからは、技術だけを感じる事は無いからです。

表現と技術が完全に一体になっているものは「ひとつのもの」であり、分離がありません。それは「ただその作品」なのです。

素直で朗らかで天真爛漫で、誰でも出来そうにすら観えるけども、絶対に普通の人には出来ない・・・そういうものです。

「そういう境地にあるもの」が良いです。

キャリアが長いからといって、権威のある人だからといって、それを出来るようになりません。また、身体や精神が老化していたらそれは出来ません。

また、そういう境地に至った人でも、いつまでもそのような境地に居続けられるのではありません・・・ずっとそれが続くわけではない・・・ですから、終わりの無い、新鮮な感性での観察と実行が必要とされます。

それが、人為と人工物=制作の難しさと厳しさですね。

私は制作や表現の世界には解脱など無い、と考えております。


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