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社会が成熟して豊かになると、修行に時間がかる伝統系を本業にする人が減る傾向がある気がする

・・・タイトルの通りに思うのですが・・・、どうも、そうなると伝統工芸などでは、プロの職人・仕事人ではなく、ハイアマチュアが作家さんとして増えていく傾向があるようです。

作品制作を仕事としていても、例えば和装系手作り作家さんは有名でも制作の収入のみで生活しているわけではない事が意外に多いものです・・・かなり有名な人ですら、実は講演会や出版の収入がメインで工房を回していたり、美大や専門校などで教えることで作家としての創作活動を維持している人がいます。教室経営も多いですね。もちろん、それが悪いわけではありません。

和装手作り系で、世襲資産が全く無い状態から、ものづくりの父ちゃん、あるいは母ちゃんの制作活動のみで家族を養っているとか、さらに後継者育成のために弟子を入れているケースは非常に少ないと思います(←いないわけではない)私個人の経験では、新規参入の人でそういう人と出会ったことがありません。自分ひとりを食わせる、あるいは夫婦ふたりであるなら、制作の収入だけでやっていけるパターンはあります。

世襲で、固定費の支払いが無い人、あるいは世襲財産や世襲不動産からの収入がある人たちでかつ、先代から引き継いだ取引先がある人など、そういう人の場合は、家族を養い、スタッフを入れたりしているところはあります。(←世襲なら楽に出来るという意味ではありません)

そのような場合、どんな形にせよ、不採算部門の伝統工芸を続けてくれているということが、ありがたいと個人的には思います・・・

現状の和装業界の制作の場は、そんな「身を削って作っている人たちの良心で成り立っている業界」なのは確かです。

また、不労所得的な収入の保証が無い場合は、息子や娘は斜陽産業系である伝統工芸の家業の跡を継ぐことは、なかなかありません。親も跡を継がせたがりません。生業ならそれは当たり前ですよね。

現状、自己繁殖が不可能なレベルにまで和装業界の手作り系は縮小してしまっているので、産業としては成り立たたない所が増え、ごく一部を除いて小規模な工房や個人しか残れないという状況です。そのような人たちすらもどんどん減っています。流通や販売系はともかく、制作の場は産業としてはもう成り立たないぐらいに経済的な動きが停滞しているのです。

しかし個人でライフワークとして作家活動をするのなら作品販売で生活を成り立たせないでも済みますから、そういう人たちが今まではプロが殆どだった場の表に浮き上がります。以前はアマチュアとして扱われていた人たちが、有名百貨店の専門店などでも扱われるようになります。

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外国のことは知りませんが、少なくとも日本の政策の多くは、どうしても政治家が票欲しさから現状の日本の人口比率の多い高齢者を優遇したものになり勝ちで、それで若者へのケアが手薄になり、未来が閉塞していく感じがします。(もちろん高齢者をないがしろにして良いとは思っておりません)

日本文化の大きな分野の一つである、いわゆる伝統工芸系への政策や助成も、未来を担う若者ではなく高齢者に有利な助成が行われていることが多いです。

それに、伝統工芸品系の助成金は、元々有名で助成が必要とは思えない所がいつも受けているように感じてしまうのですが、実際はどうなのでしょうか・・・

その他、地方の村や町を創作系のイベントで活性化しよう!という事で付いた助成金を、東京のコンサルタントがお抱えの作家を引き連れて、お金も手柄も持っていってしまい、地元には殆ど何も残らないなんてことも良く起こります。

上記は一つの例ですが、助成金を、違法では無いけども最終的には趣旨とは違う目的で受け取って稼いでいる人達は「助成金ゴロ」なんて呼ばれています(笑)

助成する側に、文化系も、学術系も分かる人が少なく、ロスが多いのでしょう。

誠実にやっているがゆえに、バケツのなかで口をパクパクしている酸欠の金魚のように苦しい、本当にお金や支援が欲しい所に、お金が届いていない感じです。

何にしても、それだけ現状の日本では「自国文化を育てて未来へつなげようとする熱意は無い」ということです。科学やいろいろな研究の分野でもそうですね。いくら言葉でそういうものを大切にしましょう!と言っていても、実際に何もしていなければそれは行動が全てを表しているということです。

それは自国の兵士に、情報も兵器も兵糧も供給しないのに戦果を上げろ、と言っているようなものです。

実際、古今東西、社会が成熟したり、成熟のピークから斜陽になってくると「より良き未来よりも、公共的な物事の進化よりも、今生きている個人の欲望や権利が優先される生活が基本」になるようです。現状の日本は成熟かつ斜陽の社会ですから日本全体がそういう感じになるのは自然とも言えます。なので、日本人がおかしい、という事では無いと思います。

そんなわけで、創作や、いろいろな研究、伝統系の渦中にいる人々は「好きでやってんでしょ、自分で勝手にやれよ、俺たちの税金を使うな。自分を巻き込まないで欲しい」という扱いになるのは仕方がないと言えるでしょう。

上記のような成熟から落ちていく時期にある民族のその大多数の人は、文化的な分野で頑張っている人々に投資はしないけども、その成果は一般にも公開してタダで使わせろ、という態度になるように思います。

伝統が大切なのは分かっている。君たちのやっていることは素晴らしいことだ。我が国の伝統だからな。だから、君たちが得たその成果を公衆に公開するのは当然だ!しかし、支援はしない。だって、そもそもオマエは好きでそんな儲からないことをやってんだろ、だったらその喜びを無条件で世の中に役立つようにせよ・・・お金が必要?お金のためにやってんの?は?浅ましい!

という感じで犠牲の精神を強く要求されます。制作側が、販売側の人たちからそういうことを言われ、都合良く扱われてしまうこともあります。

【その価値は認めつつも、尊敬は無いということです。

そうなると、伝統系の制作の現場には、資産に余裕がある人のみが残るようになります。ようするに「売れなくてもなんとかなる人達だけが残る」ことになります。売れなくてもなんとなかなる人たちは、お金ではなく名誉が欲しいと頑張ることがありますので。

なので、世襲資産の無い人の場合は、どこかで本当のプロの修行をし、身につけた人ほど独立してやっていけないのです。

なぜなら、伝統系の修行中には勤め人のようなお給料を貰えないし、修行は10年以上やってやっと通用するかな、という程度にしかならないほどに長いし・・・ということで、独立時に、独立資金なんて自分では用意出来ないものなのです。

弟子にしてくれた師匠は自分が生き残るのに精一杯で、親族以外の独立した弟子が食えるような事はしてくれないし(むしろ、商売敵として扱われる傾向がある)社会からの支援も殆どありません。

世襲でやっている工房の場合は、師匠の子息が跡継ぎの場合、どんなに長年勤めた弟子に資質と才能があり、長年工房に利益を与え実績を上げても特に給料は上がらず、工房の代表になれず、安月給でこき使われ、師匠の子息が跡を継げば、実力がある分、工房の高弟は危険視され邪魔にされ、工房を追い出されるケースが多いです。師匠や師匠の子息が独立した弟子の商売の妨害をすることすらあります。

なんだか、小説やドラマに良くある苦労話のようですが、それは現実にあります。

現代日本では新規参入の文化的チャレンジャーに投資する人はほぼいません。クラウドファウンディングでも、一般の人が草の根的なことをやろうと募集しても殆ど資金は集まらない傾向があるように思います。クラウドファウンディングをする必要が無いような有名な人たちが宣伝目的で行って資金調達を成功させているケースが多い感じがします・・・

そうなると、プロとしての修行をした人ではなく、趣味でやっているハイアマチュアの人が、その伝統文化の代表者になるのです。本業の人たちに社会を動かす影響力が無いからです。当然、業界の基本的なレベルは落ちます。

それが繰り返されて、昔の良いものとは似ても似つかぬものが「伝統工芸品」として売られるようになってしまうわけです。

そして、こんなダサいくせして値段の高いものが伝統工芸品なのか、そんなものいらない!となり、さらに伝統工芸品離れが進みます・・・

これは分野を問いませんが、そんなケースが増えると、例えば、ある文化に対して専門的な知識の無い有名タレントが、ただ有名人だというだけでその人の作品や言葉が専門家よりも力を持つようになります。テレビの報道番組に出ている芸能人やタレント学者のコメンテーターなんてそうですね。

有名人のどうしようもない絵がなかなかの人気で高値で売れたりするのは良くあります。しかし、資本主義の社会では売れたもの勝ちですから、そういうものが正義になってしまいます。

そうなると「表向きそれらしいもの」が人気になりますし、メディアが感動物語にしやすいものに人気が出たりします。

とにかく「スグに形になるもの」「とにかく分かりやすいもの」が求められます。

だから「本当に修行した人」ではなく「感動物語」を背景に持つ人が重用されるようになります。それは盛ってもかまわないし、捏造でもかまいません。それが事実である必要は無いのです。

「現実的に良い仕事」ではなく「より感動出来る物語を持っているもの」もしくは「それが本当だか分からないが権威があるらしいもの」の方が重要になってしまうわけです。

なぜなら、そのような時代になってしまうと審美眼のある人はわずかになり、人々には「良い作品と悪い作品の区別がつかない」からです。

(だから、質の高い文化は、高度なものを作る人と、高度に批評出来る受け手の両方が必要なのです)

もちろん、国全体が本当の意味で力があれば、それに投資する経済的余裕と、精神的余裕がありますから、自国文化の未来を考え、より高みを目指して努力を惜しまないでしょう。また、逆に国力が脆弱であったり、文化的歴史の少ない国は、自国文化の未来を豊かなものにしたいという熱意が強烈に起こり、身を削ってでもそうするでしょう。

しかし、そんな文化的熱量が無い中途半端な成熟に至り、人々の精神が個人にばかり向かう状況になれば、その集団は力を無くして行くでしょう。

しかしそれは、構造的に仕方のないことです。それはどの集団にも起こることです。

それに抵抗したいなら、もし、本気で自国の伝統文化を育てようとするなら

「未来へ強い意思を持って投資すること」

が必要でしょう。

「伝統文化の発展には、長いスパンの未来への投資が必要」

です。

「伝統文化は、過去ではなく未来への投資を多くしなければならない」

のです。

しかし、どうも「伝統という名前」がつくものは、過去ばかりに意識が向いてしまうのです。「過去の保存と踏襲」がメインになってしまうのですね。

既に存在する伝統の過去の部分の維持のための投資は当然必要ですが、それ以上にこれから続く未来に投資するべきなのです。

伝統は、現状の文化の活力によって命を吹き込まれる

からです。

例えば、博物館にあるもの、それはぼんやり観ているだけでは、ただの古いモノ、物体に過ぎません。

現代の人間に活力があり、そのエネルギーをもって昔のモノに対面するから、その分、優れた鏡の性質を持つ古い名品がそのエネルギーを増幅し、観る人に返してくれるのです。

そもそも「過去の研究や文化や伝統の維持」だけに限定したとしても、そのための人材を育成するのに余裕のある予算と時間が必要です。

現代人が活力ある態度で伝統に対すれば、同じ昔のモノから、今まで観えなかったものも観えるものです。そういう活力のある人を育成しなければなりません。

何にしても、

人材育成無くして伝統の維持、さらに進化は達成出来ません。

伝統文化を維持しようとするのに、未来への投資の意思どころか、現状の実態すら把握出来ていない、という時点でもうその分野の未来は期待は出来ないですよね。

まあ、これは現状の日本人の文化や研究への姿勢ですから仕方がないわけですが・・・

(本質的には、日本人は伝統文化に対して非常に高い熱量を持っていると個人的には思っています・・・)

日本人は、モノを何でも保存しておく民族のようで、それで貴重な古いものが良いコンディションで残っているという事に関しては素晴らしいと思います。

(しかし、それも個人や特定の集団の良心で負担を請け負い保持されている場合が多く、公共施設では予算が削られて保持が大変という話は良く聴きます)

しかし、悪い慣習や悪法、何かしらの一時的な措置として決まった事でも一度決まった事は、問題が起こって現状や未来に悪影響を与えているのに変えない消極的な特性も同時にあるように思います。

現状は、あまりに文化に対する予算が削られているのと、助成の不適切さにより、最低限必要な「保存」「管理」「修復」を安定的に行うのも厳しいのではないかと思います。未来のための投資どころではないのですね。

伝統文化系のものは、作るのも、それを理解し解説したり、保存や修復する技術や知識を得るのも、修行に長い時間がかかります。しかも、お勤めの人のように何時に来て何時に帰る、みたいな「会社に自分の時間を提供する的な解釈」では身につかない。

また、仕事時間外の、師匠や先輩の話に宝石が眠っていたりする。それこそ、家族のようにいつも一緒にいるからマニュアルを超えた「真髄」が手渡し出来るという面もあります。

だから余計に「未来への投資が必要」なのです。手間と時間とお金がかかる。

余裕が必要なのです。

例えば作る側から言えば

「未来を担う若者たちへの助成がほぼ無い。厳しいながらも若者を受け入れ支援する工房への支援もほぼない」

これが実情です。

(割と手厚い助成が出るところもあるようです。地域差が激しくあります)

また、どんなに良いことをしていても、有名で権力が無ければ、また、人脈が豊かな人でなければメディアも取り上げることはしません。それも当然です。メディアも商売ですから仕方がありません。

そもそも伝統文化への助成といっても、助成が無いと成り立たない、ということになってしまっては、もう手遅れ寸前か手遅れです。

昔は「どうにか独立出来れば、儲かる可能性もあった」ので、弟子の間の冷や飯食いも我慢出来たわけですし、実際に腕が良ければ良い仕事を理解し、それに見合うお金を支払う人もいましたから仕事を得ることも出来ました。しかし今はそんな良い時代ではありません。その業界の仕事量が減ると、職人の腕や感性が劣化し、同時に業界人の審美眼も落ちてしまうものだからです。

助成が無いと成り立ちにくい業界になってしまったら、自然繁殖の数を割った野生生物と同じく、もう文化としては賞味期限が切れているとも言えます。

それは、もう、畑は荒れてしまい、耕作する人もいないような状態です。そんななか、

時折、伝統を守れ〜!とか、職人を守れ〜!などと唐突に主張する人はいますが、その多くはその本人の自己実現のために伝統やら伝統系の職人の保護を訴え文化を守ろうとする良い人を演じ、伝統や職人を利用する人です。本当に何とかしようと尽力している方は僅かです。

・・・畑を整えることなく、思いつきで種を蒔いても欲しい作物の芽は出ません。まして育って実を結ぶことはありません。

もっと業界や業界人に余力がある時点で、手を打たなければならなかったのに・・・しかし、自国の伝統文化が世の人々の興味に上がらないのですから仕方がありません。

現状の伝統工芸の後継者育成は、もう畑は荒れまくり、汚染され、その畑の土を作り直して新しく種を蒔いて育てることは、時間的にも、予算的にも、文化伝承の構造的にもほぼ不可能ですし、先代から受け取った種籾をもう当代の本人たちが食べてしまったのですから、もう「詰んでいる状態」だと私は思っています。(分野によりますが)

なので、私は今までの延長線上に何かを期待することはありません。

しかし「現代に合わせた機能するシステムを”新しくつくる”しか方法は無い」と思っています。

荒れて、さらに土壌汚染が激しい古い畑に見切りをつけて、それは放置しておけば良いと思うのです。それはそれでなるようになるでしょう。

だから、私は未来を悲観しておらず、

「新しい畑でやれば良いし、新しい畑で耕作するチャンス!」

と思っております。



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