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ひとつの記事のなかで自己矛盾が起こって来るのを解消するのが難しいです

あまり他の人がテーマにしない、過去にもあまり書かれた事が無い内容で、少なくない人たちが「モヤモヤと感じてはいるけども、まだ言葉になっていない事象」を、ほぼ自分の経験と考えのみで、他人に分かるように書くのは本当に難しいですね。(私は“描く”のもありますが)

私が文章を書くのは自分の内部や外部の観察の精度を上げ、深堀りし、作品に役立てるため・・・がメインの目的ですので、自分の内部や外部への観察の、文章でのアプローチが完成されているとは思っておりません。ですので当たり前ですが、noteで課金なんて考えた事がありません。読んで下さる方々に感謝です。いつも同じようなテーマを形や切り口を変えて書いているだけですしね。

で、その根源にある理由は何か、となると「ただ書きたいから」です。それだけです。

それはそれとして、私が何か作ろうとする時、それは文章を書く時も同じですが・・・

何かのテーマを書こうと思い、書き始める、そのテーマを起点に進めて行く・・・

大きな枠で捉えていた状態では矛盾は観えなかったのに、テーマを追い込んで行き、細部が明瞭になりそれを描写し始めると小さな矛盾が生じて来る事が多い・・・前後の継ながりが悪くなる。「かといって間違いでもないその矛盾」の整理に手を焼きます。

滞っていたものが「あ、今通った!」という感じになるまでに、内容を変える事なく、より明瞭になるように整理するのに時間がかかりますし、書ききれない事もあります。自分の文才の無さを呪います ───表現したい対象のおぼろげな姿が見え、あ、もう少しで捉えらえられる、と思った瞬間にそれはフッと消えたりします。いや「見えた」と思ったら負けなんでしょうね。瞑想みたいなもので。余計な事を考えられないぐらいに無我夢中で書いていて結果残った文章、というのを後から整理するぐらいの方が良い感じです。

途中でどうしても「通らなくなった場合」は「起点(初動時につけたタイトル的なもの)」を書きたい内容の意味が変わらない程度に移動しますが、それでも通らない場合、その「起点」は「起爆剤」であったと解釈し、その起点は破棄し変更する必要も出てきます。そうしないと、言いたかった事の本質が形にならない場合も多いんですね。

最初の起点の名称にこだわる事によって、テーマの本質から外れてしまうのは本末転倒です。しかし、その起点が無ければそれ自体が産まれなかった訳ですから、その起点は重要です。もちろん、テーマがあいまいなまま、なんとなく書き始め、そのうちにテーマ自体が観えてくる場合もあります。

何かしらの作品を形にする際に、ある道を目的地へ向かって歩き、上り坂になり、その頂上に来ると今まで見えなかった次の進むべき道が見えるけども、そこで初めて想定していたのとは違う道へ向かうのが正しいと分かった、というのは良くあります。さらに・・・振り返ると今到着した場所に来るにあたっても、もっと良い道があったのを知ります。

しかし、その地点まで自力で歩いた事による経験と知識があるからこそ、自分の過去行った事や、未来への想像が間違っていた事が分かったわけですから、今まで歩いて来た道や手間は無駄ではありません。もちろん、その苦労自体には何の意味も無いので、苦労自体や、その苦労に耐えた自分に価値は与えません。即座に新たに見えたその時点での正解へ向かいます。

特に、言語化しにくいものをなるべく明快で平易な言葉で書き切るのは、本当に難しい。伝統的宗教では本当に見事としか言いようのない洗練と凝縮のある平易な言葉による一言があります。ああいうレベルのものには心底頭が下がります。ああいうものが書けたらなと夢想します。

宗教用語などには「ある精神状態を説明する単語」があったりしますから、それを書いて、そこに注釈を付ける方式なら難しくは無いですが・・・しかし、それだと血が通わないんですよね。自分で発見し、練り上げたものでないと・・・

それに「まだ名前の無い新しい物事」「モヤモヤするけども、まだ言語化されていない事象」を書こうとすれば、普通の当たり前の言葉でどうにかこうにか書ききるしか無いわけで ───

これは、いわゆる表現活動などに関わらず、人間が新しい何かを産み出そうと活動する際にはどうしても起こる事なのでしょう。そこをキチンとしないと明快さが出ないし「実用的ではなくなる」んですね。

理屈としては、文章としては、キレイに良く通ったように観えるものでも、それは実生活では使えない、という「仮の世界のもの」を表すのは、それ程難しくはない気がします。

「新しく、かつそれを知った瞬間に価値観が変わる、実際にその考えやシステムを使ってその人の生活に変化を起こす事が出来るようなもの」を得るのは難しい。

 ───何かをキチッと詰めつつ進行して行くと、細部に矛盾が起こって来るわけですが、

それぞれの「矛盾」が「実際に矛盾なのか」「矛盾に観えているけども、調整すると整合性を持つものなのか」「矛盾している事で機能しているのか」を観察・整理し、秩序を与えると、複数の要素で成り立つ作品に一体感が出ます。

一体感がありつつ、細部のニュアンスがそれぞれの個性を失っていない、という事を達成出来るわけです。

ようするに「シンプル」に向かうわけです。

シンプルなものは、実用的です。

シンプルというのは「必要な要素を失う事なく、全体を同じ方向へ向けてやり、統一する事」だと私は考えています。良く「余計な物を削り落としてシンプルにする」と言われますが、そのようなテーマを持ってしまうと「削る事が目的」に陥りやすくなるので、私は採用しません。それに「“余計な物”がシンプルにするのに必要な場合もある」のですが、それを見逃してしまいます。

・・・シンプルに行き着くと「光が通った感じ」が出てきます。

もちろん、そのシンプルさは、何かしらの作品であれば、その作品が持つ本質としてのシンプルさですから、表面上は複雑な見かけの事もあります。一見複雑に見える状態が、その作品の最もシンプルで通りが良い状態である事も起こります。そういうものを、見かけのシンプルさに変形させてしまうのはいけません。

そういうのは「レ点方式」で確認して進行させても上手く行かないようです。私は理屈抜きに「あ、今通った!」感覚をとても大切にしておりますし、その感覚をかなり強く信用していますし、そういうものが結局、他人へも通じるようです。もちろん「通った!」と感じても後から検証すると間違っていた、という事は良くありますので、検証は常に必要ですが。


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