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鑑賞方法の成立が無いと創作品は理解されにくい

いろいろな創作品において見本とされる、完成品とみなされるものは「鑑賞方法の成立」ということと密接につながっているように思います。

例えば、過去の「素晴らしい作品」とされるもの、それそのものは、そこに存在しているだけです。実は出来上がったばかりの頃はそれ自身が完成しているわけでもない。良い意味で、未完成ですらある。(それは、つねに生育しているという意味で)それはただ「美の泉」から豊かな水を湧き出させ続けているだけです。

それを受ける方は、それを認識するにあたって「鑑賞方法を創作」して行き、それを「作品として完成」させるわけです。

そこで、その創作品は「完成させられてしまう」わけです。

ある意味「鑑賞方法の成立」が無いと、広く一般には理解されにくい。

ゆえに作品と並んで鑑賞方法も創造である、と言えます。

しかし、その鑑賞方法が成立してしまうと、場合によってはその作品を檻に閉じ込めてしまう危険もあります。

「鑑賞方法は伝説化・固定化・権威化する危険を常にはらんでいる」ので(それは特にビジネスや人間関係の権力が絡むと余計に)「鑑賞方法という知識が作品の全体像である」というところに陥ると、むしろ作品を観ることが出来なくなるわけです。

創作品を自分自身の眼と感性で観られる人はかなり少ないのが実情ではないかと思います。名品ほど、解説を読んだ記憶を元に、その知識を通して観ていたりするものです。

そうなると、作品そのものよりも鑑賞方法や解釈などの方へ関心が行ってしまい、創作品と対面するにあたって、最も良い姿勢である「素のまま対面する」ことが出来なくなります。

そうなると作品そのものを観られなくなるだけでなく、その作品に対する知識や、それぞれの主義主張のぶつかり合いが起こり、作品と関係ないことで争いすら起こってしまいます。

そういう争いの場では「創作品はただの自己主張のネタにされてしまう」のです。それは、良く起こります。

「鑑賞方法の成立が無ければ創作品は成り立たない」

しかし、鑑賞方法が成立すると、

「作品の全体像は捉えられず、部分しか観えなくなってしまう危険も産まれる」

「作品そのものよりも、それへの解釈や知識の方が主題になり、争いが起こることも多い」

というわけです。

これは、民藝論などでも言えることで【民藝論の本来的な根幹は、民衆の、正に今、産まれて使われ消費される事象の総体】なので、本来的にはそこに形式は無いのです。

が、現実には「民藝(館)スタイル」が存在し、それは民藝論が発表された時代からずっと変わらず、そのような作風のものが入選し、認められるわけです。それは全く民藝の本質とは外れてしまっていると思います。民藝を名乗りながら、民藝の本質から最も外れてしまっていると言えるかも知れません。

しかし、民藝論が発表されたことで、本来的に形を持たない民藝は、社会的に認知され、価値を持つものとされたわけです。

事象に対しての人間の観察は、暗闇のなかで懐中電灯を照らしているようなもので、その照らされた部分しか観えていない、という自覚を持つことが大切だと思います。


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