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『博論日記』を読んで:断片的なシーンが持つリアリティについて

先般、Twitterで少し話題になっていた『博論日記』を読んだので、この記事では、感想というか、本を読んで気づいたことを書いておきたい。ただし一読しての感想なので、ミスリーディングなどはご容赦いただければ。

出版社の方が執筆されたnoteは以下のとおり。
あらすじや、書籍の概要はそちらをご参照ください。
以降はネタバレを含んでしまうので、ご了承ください。

本noteでも少しだけ触れておくと、主人公はフランス人女性で、中等教育の教員をしたあと、大学院の博士課程に進んだ文系院生で、カフカのことについて博論を執筆しようとしている。物語は、博士課程の入学直前から博論を書いている間、博論を執筆していく過程や、彼女を軸とした、教員や事務員、同級生や家族、恋人などとの人間関係についても描かれる。

わたしが読了して思ったことは2つある。ただ、1つはこういうところに書くべきことでもないような気がするので、割愛する。

このnoteでは物語において場面が不規則に飛躍する、つまりシーンが断片的であるという点に焦点を絞って、私見を述べていきたいと思う。


断片的なシーンで博士課程の何がわかる?

(巻末の訳者による解題でも触れられていなかったように思うが、)本書全体を通じて、場面が断片的であることが多い。
たとえば、前述の出版社noteの中でも言及されているが、主人公の5年間の苦労というのは、毎年撮影される顔写真や、論文テーマ、奨学金の有無が書かれた「レポート」の中に垣間見るようなしくみになっている。しかしこの箇所からは、どうして途中でテーマを変えたのか?や、なぜ1年間でそれほど相貌が変わったのか?などには殆ど触れられずに、博士課程の間の数年間がまったくすっ飛ばされているのである。この点、日常の機微を捉えた繊細な随筆などとはかけ離れている。
このようにわたしが書くと、この本は博士課程の実態を知りたいと思って読んだ読者に対してたいへん不親切で、役に立たないかのように思えるかもしれない。ちなみに、実際わたしも読了直後には全然博士課程のようすがわからないじゃないか!と思った。

しかし、読み終わってからしばらく考えるうちに、むしろこれは博士課程の実態を(ある意味で)きわめて精巧に描写しているのではないかという考えに行きついた。

どういうことか?

つまり、この「シーンが断片的であること」こそが博論に取り組む博士学生のリアル(あるいは本質)で、それゆえに作者はそう読めるように構成を練っていたのではないかということである。
主人公の日常が博士課程1年生から一気に数年分も場面が飛ぶという構成は、一見すると「主人公が何もやってない」と読むことができるかもしれないが、それよりむしろ、「主人公にとって、その期間の記憶/記録がない」と読むのが妥当ではないだろうか。

博士学生の記憶と記録のリアル

なぜこのような突拍子もないことをわたしが言い出すのかといえば、博士学生である自分自身この現象に心当たりがあるからだ。

現在、筆者は文化人類学的な長期調査に従事して2年目になる。そして他のフィールドワーカーたちがするように、主な調査以外の日々の経験を書き留める「調査日誌(いわゆる日記である)」を作成している。
恥ずかしげもなくわたしの状況を開陳すれば、わたし自身上位20%に入るような優秀なフィールドワーカー・研究者ではないため、しばしばこの調査日誌をサボる。ひどいときには丸々1か月空くこともある。もちろん、フィールドノートは付けているので、研究をまったくしていないというわけではないことははっきり述べておきたい。研究はちゃんとやっているのだが、その研究をしている日常の記録を怠ることで、後日思い出すころには、その記憶は途切れ途切れになっている、つまり断片的なのだ。

その意味で『博論日誌』は、まさにわたしの「調査日誌」そのものだった。

自分の五感をフル稼働して現地で調査や経験を積み、その調査や経験を可能な限りいかなる手段を使ってでも記録しなければならない自分でさえこの有り様なのだから、本書の主人公ともなれば、自分の研究や執筆の記憶をどこかに書き留めておくことは二の次三の次にもなるだろう。

また、調査以外の場面でも同様の現象に直面したことがある。
わたしが修士課程に居たころ、まだ現地調査をロクにしたことがないころのことであるが、修士論文を執筆していた数ヶ月の記憶というのはほぼない。記録もない。なぜなら、記録をするヒマがあるならば、論文を書きたいと思っていたからだ。

また、わたしの研究室の関係者に博論執筆経験を訊ねれば、やはり彼/彼女も、当時の記憶がないという。

自分の五感をフル稼働して現地を調査する自分でさえこの有り様なのだから、私が依拠するような研究方法を採用していない人たちなら、自分の調査や執筆の経験をとどめておくことは二の次三の次にもなるだろう。
そう考えれば、取り留めない日常や世界の機微にすら日記に書き留めて、それを慈しみ、思索に耽るエレガントな(わたしが大昔に思っていたような)博士学生のイメージなど幻想である。
主人公は、その物語の中に書かれていない期間に、思い出せないほどがむしゃらに、白目をひん剥きながら目の前の研究テーマと博士論文の執筆に向き合っていて、もしかすると研究テーマのことなど考えていられないほど目の前のことに没頭せざるを得ない状況にあったのかもしれない。


これは博士課程に身を置いているからこそ、とくに私の場合は、フィールドワーカーだったために、こういう本の仕掛け?に気づきやすかったのかもしれない(もちろん、社会人をしている人たちや卒論に取り組んでいる学部生、あるいは部活に打ち込んでいる高校生にもどうようの経験があると思う)。ただ自分の場合、もし博士課程に在籍していなければ、博士学生の悲哀がひしひしと伝わる「不親切な本」で終わっていた気がする。


ともあれ、(あまり偉そうに言うことでもないのだが、)本書は実際の博士課程の院生をして「リアル」と言わしめるものである。

さて、このnoteも、博士課程の生活のなかで、断片的になるがままに任せず、それにわずかにでも抵抗するために「書き留める」ものである。

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