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テレビ塔を眺めていたあの頃。女としても男としても水商売をしていた過去。

僕は性同一性障害の当事者である。鈴木優希。現在40歳。


生まれた時は「女」だった。でも物心ついた時から心と身体の性別が違っていた。
治療を進め、現在は戸籍変更をして「男」として生活している。

LGBTセミナー講師、LGBTオンラインサロンの塾長の活動と、本業であるLGBT、セクシャルマイノリティの子を集めたバーを名古屋の錦三丁目で経営している。

名古屋で一番の歓楽街。錦3丁目


僕が初めて錦三丁目に来たのは18歳の頃。
最初は、友達に誘われて週に一回のバイト。

女として「ホステス」からのスタートだった

それから、「オナベ」いわゆるFTM。
男装している女の人を実際に初めて見た。
男物のスーツを着て、名前もカッコイイ源氏名で堂々と生きていた。
その姿を見て、元々感じていた「性別違和」が確信に変わった。

それから、女でいることが必須のホステスの仕事がだんだん辛くなっていった。

限界を迎えた僕はお店を辞めさせてもらう為、オーナーであるママにカミングアウトをして憧れていたオナベバーで働こうと決めた。

話は急展開。

それは、ママが僕に「店を出してくれる」ことになったのだ。

その理由は、
ママのスナック経営が好調だった為、もう一軒アフターで使えるお店(スナックが終わった後にお客様と飲む店)を出したいと思っていた事と

僕の性格をみて、オナベバーでは働けない。
厳しいから、アンタには無理よ。
というママの見立てからだった。

そんな話を聞いて、どんどんオナベバーで働くことが怖くなって(笑)

僕はママから提案してもらった、店を任される話をありがたく引き受けた。

いざ、オープン。そしてその後。

でも、現実は僕の思いとは全く違っていた。

オープンの日。
僕は張り切って男物のスーツにネクタイを締めた。
「やっと自分らしく働ける」そんな思いだった。

それでしばらく接客をしていたら、ママから電話。
「ネクタイは外しなさい。お客様が驚くから、変わるならゆっくり変わっていって欲しい」と。

「ゆっくり?」
それはどのペース?誰に合わせたもの?
23歳の僕にはわからなかった。

やっと何も隠さずに自分で居られる。そう思っていたから、落胆したのを覚えている。

源氏名も、僕は昔から憧れていた「男っぽい」名前をつけたかった。

慎太郎、真之介、、、

でもママは、「男でも女でもイケる名前」でと

伊織、葵、、を提案。

僕がまだ女っぽかったのもあるが、これもまた思い描いていた理想像とは違っていた。

その流れで、ママの意見も汲みつつ今の「優希」になった。

今となっては、
ママが僕を理解してくれた気持ちと
経営者として「店を成立させないといけない」というどちらの気持ちもわかる。

そしてママの言う通り、あのままオナベバーに勤めていたら逃げ出して今はなかったのかもしれないし、優希という名前も気に入っている。

当時の僕は、なぜ「女」のフリをしてまで頑張れたのか?

その答えは簡単!!

実はそのママの事が恋愛として大好きだったからだ(笑)恋愛はすごいパワーだ。

叶うことはなかったけど、
毎日一緒に居れることが嬉しかったし、仕事を頑張ることで褒められることが嬉しかった。ただそれだけで、踏ん張れた。

ただ、コスト削減の為、遠くのスーパーまでの仕入れ。店のおしぼりも元のお店まで貰いにいく毎日。
ネクタイも締めれない、男でもなく、ボーイッシュな女が、重いおしぼりケースを持って錦の街を店から店へ歩いた。

錦三丁目からは、テレビ塔が見える。

いつもおしぼりケースを持ちながら、見上げていた。

いつか、テッペンにいきたい!

今はまだまだ下働き。オナベとも認められず、ただの中途半端で、理想の自分とは違いすぎる「今」だけど、
決して腐らず、あきらめず、地に足をつけていつか登ってやる!!

テレビ塔に自分の想いを重ねていた。

こんなカッコつけたことを言っているが、
ママへの下心がなければとっくに辞めていたと思う笑

これが、オナベバーでの経験がない僕がオナベバーを立ち上げた経緯である。

顔を下げない。下を向くな!

今でもふと見上げる。
あの頃のことを思い出す。
そして、もっと頑張るんだ!
そんな気持ちにさせてくれるテレビ塔は僕にとって今も変わらぬパワースポットだ。

下を向いてはダメ。
どんなに思い通りにならなくたって、
今の自分が理想の姿と違っていても、見上げてみよう!

塔でも空でもなんでも良い。

そうすれば必ず気持ちも上向く。


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