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非二元・ノンデュアリティを忘れ去り、解脱へと逝くこと


非二元、ノンデュアリティであろうがなかろうが、

永遠不変の無限なる意識、

一切の言葉も概念も人間的な人格も持たない、
いのち、愛、根源エネルギーが唯一の不動たる実在であり、
自分の本質であり、
全ては無、空であり、


無、空から宇宙の全ての見えるもの見えないものが、
あたかも実体があるかのように蜃気楼の如く顕れ、
瞬瞬刻々と生滅しては新しく生まれ変わり、
宇宙全体で一つの実体のない現象で、
移ろいで変化している。

いちなる
いのちが私を生きている。



人間の頭と言語活動では絶対に理解する事が出来ない
無思考状態の空白に落ち、
このような事が一瞬で理解出来てしまう体験、体感、気づきがある。

そして、現代科学は「素粒子」と言う形で
その事を裏付けた。

「このような思考のストーリー」を信じて、
あまりにも苦しい人が一時的に心身が楽になるのなら、
信じ込んでもいいかとは思います。


だがこれは、
空白の状態にまで、
意の認識が「完全に」落ち切るまで、
完全に死に切るまでは逝っていない一瞥でしかないのです。

なぜなら、
決して何一つ頭では理解不能な悟り、解脱、宇宙の真相を
まだ上記のような言葉と概念で
人間的な見解で
考え方で持ち続ける「私」

それに気づき
「体験、体感、気づきした私」

「自己の不在に気づいた私」

「観ている私」

を完全に忘じ切れていないからです。
残ってしまっているからです。


しかも
永遠不変で無限なる意識、いのち、愛、根源エネルギー、
「永遠不変の不動の実在」が本当の自分、自己の真相だとは、
お釈迦さんの真の悟り、解脱には一切出て来ません。


固定化された不動たるいのちの根源と呼べるもの、
そんな事を一言もお釈迦さんは伝えていません。

「諸行無常」・「諸法無我」と
と般若心経では伝わっております。

そして
素粒子は、お釈迦さんが指し示した
悟りとはいっさい関係がございません。
故に、
現代科学はお釈迦さんの悟りを解明しておりません。


固定化された不動たるいのちの根源と呼べるもの、
そんな事を一言もお釈迦さんは伝えていません。


お釈迦さん自体、
一字一句、何も遺していません。


そもそも
今もうすでに
あなたも私も、北斗の拳如く
「もうお前は死んでいる」です。

「私が存在してこの心身が私である」というのは、
物心ついた頃に認識した

「人類共通の思い込み」

です。

ですから、
もともと無覚無生ですから、
死にもしないし
生まれてもいない。


その「私が存在している」
と云う思い込みは
ありとあらゆる観念の中心に鎮座しています。

この認識、
思い込みから解放されるためには、
瞑想ではほぼ100%無理だと思っています。

なぜなら、
観察者の私」が残ってしまうからです。

世間一般の坐禅や
完全に決着していない禅師や老師の指導による坐禅、
道なかばの非二元、ノンデュアリティの人達が教える坐禅、
瞑想も完全にアウトです。


完全に決着されている方の世間一般の坐禅とは全く違う、
坐禅のようなもので、余計な事をせずに
淡々と実践なき実践を実践していれば、
完全に自己を忘ずるお釈迦さんの伝えている真の悟り、
解脱の体現に与れることでしょう。


ちゃんとした
実践なき実践を実践していても、
それでも、
お釈迦さんの伝える悟り、解脱とは違う、
道なかばの非二元、ノンデュアリティの一瞥体験が起きてしまう方も
出て来てしまうでしょう(笑)

それでも
一瞥体験に執着せずに、
忘れ捨て去り、

「体験、体感、気づきを経験した私」
を落とし、

そのままに真に何もしない実践をし続ければ、
非二元、ノンデュアリティではなく、
お釈迦さんの云う真の悟り、
解脱の体現に与れる(体験、体感、気づきではない)
のではないかと思います。


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