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110年続く染工場さんの歴史/アランニット制作日記 8月中編

 ゆきさんと一緒に、内田染工場を訪ねる。普段はメールと電話でやりとりをするので、工場を訪れるのは今日で3度目だという。

「うちはもともと桐生で呉服屋をやっていたんです」。内田染工場の社長を務める内田光治さんはそう教えてくれた。内田家は代々呉服屋を営んできたけれど、内田作次さんは呉服屋を兄に任せて上京し、染色の技術を学んだ。そうして東京の山手・小石川に内田染工場を創業したのが明治42年――今から110年前のことだ。

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昭和10年(1935年) 内田染工場 上棟式

「今はこっちが表通りになってますけど、昔は植物園に面したほうが表通りになっていて、川が流れていたんです。私が生まれた頃にはもう違ってましたけど、当時は川に沿って染工場がいくつかあったそうです。元が呉服屋だったこともあって、最初は呉服関係の糸染めをやっていたんですけど、戦争で桐生に疎開して、靴下製造業を始めたんです。疎開しているあいだにここは焼けてしまって、戦後に釜一つからやり直したんです」

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昭和30年(1955年) 内田染工場の2代目と奥さま 工場前にて

 内田光治さんは三代目にあたり、幼い頃から靴下の中に埋もれるように暮らしていた。小さい頃から家業を手伝うのは当たり前で、大学生の頃も休日は工場で働いていたのだという。

「その当時は父と母、それに職人がふたりぐらいしかいなかったので、自分が入らなければ終わってしまうというところもあったから、継ぐことに対する抵抗感はなかったですね。今は私も含めて25名いるんですけど、最大で44名いた時期もあるんです。その頃は60代、70代の職人がいて、『見て覚えろ』みたいな感じで良い師弟関係があったんですよね。それが今、代替わりしている感じです」


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令和元年(2019年)左:内田染工場 3代目社長 内田光治さん 、右:YUKI FUJISAWA  藤澤ゆき

 2013年にアポイントを取ってからというもの、ゆきさんはずっと内田染工場でニットやトートバッグを染めてもらっている。「工場の皆さんも良い人ばかりですし、若い職人さんも多いんです」とゆきさんは言う。繊維産業は高齢化が進んでいて、後継者不足によって閉鎖を余儀無くされる工場も少なくないけれど、内田染工場には若い従業員もいる。

「職人は40代が比較的多いんですけど、洋服が好きだから、見た目は若々しいんですよね」と内田さんは笑う。「その世代の職人たち――上の世代から『見て覚えろ』と言われていた職人たち――が、自分たちが覚えてきた技術を次の世代に受け継ぎたいという欲望が出てきたこともあって、20代の人を入れたいなと思って募集をかけたんです。そこに何人か応募があって、この秋から新たに3人採用することになるので、ちょっと若返ることになると思います」

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【アランニット制作日記 8月後編】 へ続く

words by 橋本倫史


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