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「お菓子な絵本」9.人間チェス


9. 人間チェス Living Chess



「アルヴィンの息子なら」

 カイザー・ゼンメル城の薄暗い書斎の中、城主であるルドルフ公と、警備隊長ぺルル・アルジャンテがチェス盤を囲み、作戦を練っていた。

「奴は筋金入りの平和主義者だったからな。奴の息子なら」
 ルドルフ公は白ポーン(歩兵)の駒を2マス前進させた。
「自軍を壊滅させるような無謀な攻撃は仕掛けて来まい」

「恐れながら、ルドルフ殿」
 ルドルフ公の言葉に全神経を集中させていたアルジャンテは、自分の黒ポーンを白ポーンの正面に進ませた。
「徹底した平和主義者であるならば、犠牲を最小限に抑える為にも捨て身の攻撃で、戦闘の早期解決を図ろうとするのでは?」

「それも一理ある。しかしアルヴィンなら、やはり正攻法だ。決して無茶はしない。派手なゲーム運びもしない。相手の挑発など、まるで無関心。奴のピアノがそうだった。いつでも、どんな場面でも、どんな曲でもそつなく無難にまとめてしまう。すべての感情を抑え……」

 ルドルフ公はそこで言葉を詰まらせた。次の手を打つ手がかすかに震えている。書斎の小窓から差し込む落日の夕陽がチェス盤を照らし、駒に長い影をつくらせていた。

 ジャンドゥヤ王子の父にして、この世界の創造者であるアルヴィン王。9年前、女王と共に行方不明になって以降、彼の洗練された美しいチェスのスタイルは記録でしかお目にかかれないものの、既に伝説となっているその評判を知らぬ者はいなかった。

 

 アルヴィン王のチェスは、音楽を奏でているかのようだった。非常に静かで地味な手法であるにもかかわらず、相手は攻撃のチャンスすら与えられぬまま、なすすべもなく負けていく──


「しかしながらルドルフ殿。あのアホ王子を、アルヴィン王の息子とはお考えにならないほうがよろしいですよ」
 アルジャンテは手に取った黒ナイトの駒を振り回しながら言った。
「あいつの思考回路は、完全にいかれているのです!」

 ナイトがチェス盤に乱暴に叩き付けられる。回りの駒が転がり落ち、ゲームは台無しになった。

「敗北への道をたどりたくなければ、怒りや焦りといった感情を完全にコントロールせねばならんぞ」
 ルドルフ公はアルジャンテの散らばした駒を辛抱強く置き直しながら言った。
「いいか。酒は飲むな。今夜もだ。食事は腹八分目とせよ。そして、太陽には背を向けて立つのだ」


   ※   ※   ※


── 違いない。これはぼくの為に書かれた物語なんだ ──。

 ふうーっと長いため息をついて、真秀はベッドに仰向けに寝転んだ。
 母親が趣味で童話やエッセイを書くことは、知っていた。幼い頃は毎年の誕生日ごとに、父親が簡単なさし絵をつけ、丁寧に製本されたオリジナル絵本の贈り物があったりしたものだから。中には真秀自身が主人公になっている楽しい作品もあった。むろん、それらは今でも真秀のガラス戸本棚の、特上の位置を占めている。

 チェスの名手でピアノも弾く、〈アルヴィン〉という名の王さまが創造者で、しかも暗号のキーワードが〈シュヴァルツ〉とくれば、作者が誰か、なんてすぐわかる。
 考えながら、真秀はふと、はにかんだ表情を浮かべた。そのうち、〈真秀くん〉あたりが出てきたりして? きっと二人で密かにこしらえて、ぼくに発見されるのを待ってたんだろうな。にしても、あの人たちらしい手の込んだやり方じゃないか。

「でも、真秀なんて名のお菓子はないか。残念」

 半面ほっとしながら、お菓子な連中をじっくり眺めてみる。
「ルドルフ公、登場したのにお菓子になってないんだよな」

 ルドルフ……。どっかで聞いた名だ。ルドルフ。真秀は現実世界へと思考を切り替えた。ルドルフ。
 そうだ。行方知らずのピアニスト、ルドルフ・ベッカーだ。父さんが若い頃、ライバルと言われてた。もっとも、ぼくが生まれる前の話だけど。確か二人はコンクールで競い合って……。

 たとえ本筋に関係なくとも、ひとたび気になりだすと、とことん気になる真秀であった。ベッドからよいしょと降りると、オーディオ・ルーム兼音楽資料室になっている隣の部屋へと足を運んだ。風邪のせいか足が地についてない感じ。頭も少し、くらくらする。

〈アルヴィンの瞑想室〉といわれるその部屋には、ひとそろえのオーディオ機器に、座り心地のよいソファ、音楽関係の資料が、図書館の音楽コーナーさながらに置かれていた。
 芸術家の偉大なる遺産ともいえる貴重な記録、様々なCDやDVD、往年のLPやカセット、ビデオテープなどが、演奏家や作曲家別、年代別に、わかりやすく並んでいる。
 これらは大型プロジェクターや、タイムドメイン理論を活かしたボザール社の、小型ながら最高の音響を誇るスピーカーによって、リアルに再現できる環境が整えられていた。

 伝記や書簡集、研究書の類は作曲家ごとに棚が分けられ、モーツァルト、バッハ、シューマンといったアルヴィンと真利江の格別お気に入りの作曲家コーナーは、額に入った肖像画や小さな彫像とともに、美しく念入りにレイアウトされている。

 目的の資料を探すのに時間はかからなかった。それは演奏会のパンフレットなどと、隅の本棚に並んでいた。

『ピアニスト名鑑』

 ドイツの〈音楽新報社〉から数年おきに発行され、届けられるものだった。真秀はその最新版を調べてみた。

「B、B……、あった。ベッカー、ルドルフ」 

 ページの半分にも満たない、形式上の扱い程度の小さな記事が、挑戦的なまなざしをたたえた若いピアニストの写真とともに紹介されていた。


 ルドルフ・ベッカー。1964年マンハイム生まれ。
 オルガニストの母親の手ほどきにてピアノを始め、12才でデビュー。早くから天才少年の名を欲しいままにするが、その後腕を痛め、医学の道を志す。
 しかしピアノヘの情熱を捨て切れず、1986年、東ドイツで開催されたロベルト・シューマン国際コンクールに出場し、優勝。幼少時よりのライバルとされていたアルヴィン・シュヴァルツと競い合い話題となる。正統派のシュヴァルツとは正反対のアクの強い個性派ピアニストであったが、コンクール直後に消息を断ち、現在に至る──



   ※   ※   ※


 カイザー・ゼンメル城の中庭に位置し、警備隊の過酷な訓練の場として、また、名誉のための決闘の場として、おびただしい血でその床を染めてきたモザイク広場。白と黒のタイルの市松模様を盤として、人間チェスが行われようとしていた。

 先手、白側はジャンドゥヤ・ブラン及び王室護衛隊。後手、黒側はぺルル・アルジャンテ率いる警備隊を中心にメンバーが組まれていた。キング、クイーン、ビショップ、ナイト、ルーク、そしてポーンを演ずる者たちが、それぞれの駒を表すマントをまとい、お菓子でできた帽子をかぶっている。
 辺りに漂う甘い香りと緊張感。

 白キング帽のケーニヒス・ベルガー王室護衛隊長が、注意事項を読み上げる。

「ルールは従来通り。一歩でもマス目をはみ出せば、たとえそれがどんな悪手であってもその駒は必ずどこかに移動しなければならないルールも、同様である」

「だるまさんが転んだ、じゃあるまいし! この狭いマスの中で始終じっとしてろというのか?」
 黒キング姿のアルジャンテ警備隊長が悪態をついた。

「せいぜい精鋭部隊を選抜しておくことだな。持久戦にならぬよう、願ったり叶ったり」
 白ナイト帽のジャンドゥヤ王子が応酬する。

「30手以内に決めてみせるよ」
 ジャンドゥヤはベルガーにそっと耳打ちした。

 その様子を見ていたアルジャンテがいぶかしげに文句を言った。
「なぜ王子がナイトで、ベルガーがキングなんだ? 何だかズルい気がする」

「ナイトが好きなのでね。指示を出す者が必ずしもキングを務めなければならないなんて、とんだナンセンス」

 敵も味方も器用に飛び越え、攻撃しつつ守備につく。マジシャンのように動けるナイトは、まさにジャンドゥヤ王子にうってつけの役であろう。

 11時の試合開始まで、まだ10分ほどある。
 アルジャンテはさりげなく太陽側に陣をとった。
「太陽を背にして、だったな」




「あと10分しかない!」

 血相を変えて菓子工房から飛び出してきたのは、黒すぐり団のローズ・リラ。今朝はフリルの可愛い白いエプロン姿。むろんこれは菓子工房に潜り込む為の変装であった。

 チェスの開始は11時。
 監獄の定期点呼も11時。こちらのほうはあきらめるしかない。囚人生活はスパイ活動には最適だったけれど、とにかく今はただ、危険をお知らせせねば。
 ローズ・リラはモザイク広場へと走りながら考えた。ジャンドゥヤさま、またどこかでかくれんぼでもして下さってたら良いのだけれど。盤上に出てしまってたらアウトだわ! 皆の前でわたしが近づくわけにはいかないもの。

 庭園の噴水にさしかかる。彼女の視界に、白鳥型の口から湧き出る水をのんびり飲んでいる警備隊員の姿が入ってきた。彼は使える! 直感がそう物語っていた。

「あなた、警備隊の方ね」

 突然女性に声をかけられ、青年は思わず水を噴き出した。

「こんなところでおサボリになってて良いの? 果たし合いが始まろうっていうのに」

「そんな時間? 庭園の迷路に挑戦してみたら、すっかり迷ってしまって」
 青年はするりとした色白の顔を赤らめながら言った。
「でもいいんです。ぼくなんか、どうせ何の役もやらせてもらえないんですから」

 この人は知ってるのだろうか? ぼくが〈ウスノロ〉と呼ばれていることを。青年はよりいっそう顔を赤くした。

「ならば、わたしが重要な役を差し上げる。これをジャンドゥヤ王子さまに渡してちょうだい。大至急!」
 ローズ・リラは小さなキャンディの包みをウスノロの手に握らせ、呆然としている彼の背を押して回れ右させながら言った。
「人の命がかかってるの。必ずジャンドゥヤさまに、あなたが手渡してね!」

 わけもわからず青年はモザイク広場へと急いだ。人の命だって? なぜ王子に? この中に手紙でも入ってるんだろうか? それとも何か特別な薬? 走りながら頭をフル回転させる。しかし、きれいな人だったなあ! 
 彼はいったん立ち止まり、振り返りながら叫んだ。
「ねえ、きみ。名前は?」

 彼女の姿は既になかったが、声だけが響いてきた。
「ローザよ!」

「ぼくはホワイト。マシュマロ・ホワイト!」

 11時まであと5分! 




「ベルガー隊長夫人の気分がすぐれないそうだ。誰か代わりのものを」

 試合開始直前、白側にハプニングが起こった。クイーン役のベルガー夫人が熱気にやられたようだ。
 メンバーの間に緊張感が走る。王室側は他に女性を連れてきていなかった。好き好んで女装を買って出る者などいるわけがない。しかもクイーンの扮装は、ことさら派手だった。パンでできた冠には、ルビーに似せてハードコーティングされた大きな赤いゼリーがはめ込まれ、長いマントには色とりどりのこんぺいとう。ふわふわと可愛らしい衿の綿菓子。巨大なキャンディケーンの杖は虹色ストライプ。

「メンバーがそろわないとなると、こちらの不戦勝ということになりますかな?」

 アルジャンテの意地悪に、ジャンドゥヤが堂々と対応する。
「やむを得ない。その派手なマントと冠は、わたしが身に付けよう」

「王子!」
 ベルガーはたしなめながら一瞬、クイーン姿のジャンドゥヤを想像した。あまりにも美しすぎる……。
「王子、あなたにはプライドというものが──」

 ベルガーが言いかけたところで、黒クイーン役のマドレーヌが助け船を出した。白クイーンと同様、大げさな扮装でありながらも、上品かつ完璧に、可愛らしく着こなしている。城のバルコニーで高みの見物を決め込んでいた三人の姉たちに向かって明るい声で、
「ねぇ、お姉さま方。どなたかチェスごっこでもなさらない?」

「いやよ。日に焼けるじゃないの」
「そんな炎天下で」
 姉たちは一斉に拒否反応。
 誰かが笑いながらささやいた。
「太陽を嫌がるなんて、ヴァンパイアじゃあるまいし」

 とたんに冷ややかな空気が辺りを支配した。それは何か、得体の知れないものに対する恐怖心からなるものだった。

 マドレーヌはそばにいたニーナ・カットが深く考え込んでいる様子に笑った。
「ニーナったら。吸血鬼なんて伝説にすぎないのよ。そうだ、あなたが白のクイーンを演じてあげたらどうかしら」

 ニーナははっとして後退りした。
「いえ、わたしなどがクイーンなんて」
「いいじゃない。たまには」
「しかも敵チームの役なんて、アルジャンテ様への裏切り行為です」

「大丈夫、あなたが判断する訳じゃないから」
 マドレーヌは嫌がるニーナに、むりやり白クイーンの冠をかぶせてしまった。



「先輩! その役、ぼくにやらせて」

 ようやく到着したマシュマロ・〈ウスノロ〉・ホワイトは、ジャンドゥヤ王子が盤上に出てしまっているのを見てとるや、ちょうど配置につこうとしていた黒ナイト姿の警備隊員の衿首をつかんで引き戻した。
 文句を言いかけた先輩は、
「何も聞かないで。今日の夜警当番、ぼくが代わりますから。ね?」
 というウスノロの言葉に、まあいいかと役を譲ってやることにする。

 時計台の鐘が11時を告げた。白側と黒側、16名ずつの戦士が向き合い、整然と並んでいた。


   ※   ※   ※


「マシュマロか。なつかしいね」

〈警備隊員マシュマロ・ホワイト〉の包みを見つけ、真秀は無造作にパクリとやった。そして思わず目を白黒させた。
 これは……。
 その感触が何であるか思い出す間もなく、マシュマロは口の中でしゅわりと溶けていった。そうだ、これは……。
 幼い頃の記憶が、味覚とともに鮮やかによみがえってくる。

 母さんはいつも本物のチョコレートを使ってココアを作ってくれた。冬の間は学校の帰りを見計らうかのように、いつも熱々が用意されていた。マグカップのココアには白いマシュマロが、ぷかりと浮かんでた。溶けてしまわないうちに食べようとするんだけど、口に入ったとたん、綿菓子みたいに消えてしまう。今ちょうど食べたばかりのマシュマロみたいに。
 それは幸せの味だった。なのに……。真秀は顔を曇らせた。
 マシュマロは普段はひとつだったけど、ぼくが落ち込んだりむしゃくしゃしてるときに限って3つ入ってた。あれは母親なりの思いやりというものだったのだろう。いつだってそっと見守ってくれる母親が、どんなにありがたい存在なのかわかってたくせに、黙っていても心の中まで見透かされてしまうのがうっとうしくなった、ある日の爆弾宣言。

「もうマシュマロはいらない。ココアのトッピングは父さんみたいに生クリームにして。ぼくの帰りもわざわざ待たないでいいから」

 あらそう? と、微笑んだ母さんは、少しさみしそうだった──。


 真秀はため息をついて、お菓子な絵本を再び手にした。
 母さんはどんなに忙しくしてても、ぼくが学校から帰る頃にはちゃんと家に居てくれるんだよな。いつだって。
 気を取り直し、真秀は絵本の世界に戻っていった。

「だけどこのおいしさは、ただ者じゃないぞ。警備隊員マシュマロ・ホワイト。ウスノロなんて言われてるけど」




10.「チェック・メイト」に続く……




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