帰りたい街にあるものと、選んだこの街が持っているもの。

海の声が聴きたくて。

そんな歌があったなー、と思いながら窓辺で頬杖をついている。

こんなに長いこと、波の音を聴かなかったことがこれまであったろうか。

どうしようもなく、海に会いたかった。

できる限り人に会わず、飲食店にも入らない。 
家族ともいっしょにごはんを食べない。いっしょに寝ない。なんならフルフェイスのメットもはずさないくらいの覚悟で提案した一時帰省は母の反対で諦めた。 

父の日にねえ、「プレゼントは私です!」ってやりたかったのですよ。

最近父も元気ないみたいだから、顔見せるのが(メットでも)一番のプレゼントかなーと思ったのだけどなあ。

仕方ない、その辺りの考え方は人それぞれだもの。
たしかにひよこライダーが休み休みとはいえ安全に挑戦できる距離は超えているかもしれない、いくら一本道で、高速道路も使わず、慣れてきているとはいっても。 

母は車も運転しないし、認識も違うだろうし。

でもそろそろ私も水が溜まってきているのだ。 
海のない町で心に溜まった真水を、故郷の海の波に離してきたかった。

このままオリンピックがあって、無事に行き来ができるようになるのがいつかなんて想像もできない。今しかない、と思ってしまった節もある。少し弱気である。

波の音が聴けたら、ただそれだけで良いのに。 

家族の顔が見られたら、ただそれだけで良いのに。 

和歌山はワクチン接種の段取りと対応も全国で一番。対する京都はほとんど最下位で、数年以内に財政破綻の可能性ときた。府民新聞には、「このままでは京都市の社会保障はこうなる!」という見出しの、脅しのような記事が出ている。

そのことは、自分の気持ちに否応なく追い討ちをかける。この街に大切な人はたくさんいる。思い出もある。ただ、私には会いたい人がいて、行きたいところがある。

誰のせいでもない、そう思いながらも、故郷の空や海は青く、ここの空が灰色に見えてしまう今がどうにもやるせない。

この街を嫌いなわけがない。
嫌いなわけがないのに、本当に欲しいたった一つが手に入らないから、という理由の、そう、八つ当たりだ。

ばかやろう。

ばかやろう、ばかやろう、ばかやろう。

一瞬でも、海に会える!と思ってしまっただけに反動も大きくて。

泣いてもいい。怒っても本当はいいのだけれど、私は怒るとどうにも自分を見失いがちだから、私にとってたぶん怒っても良いことはない。

テレビもなるだけつけない。職場の人の雑談もなるだけ聞かない。それでも入り込む小さな言葉や単語のカケラが、細かいガラスの破片のように散らばって、うっかり踏んでしまう。

この言葉のガラスも、海に返せば丸くて綺麗なシーグラスに、なって帰ってくるだろうか。

私は海に会いたい。

そんなおりに、携帯のアルバムの中から長めの動画が出てきた。開いてみると、朝日が海に道をつくる映像と、えんえんとつづく波の音が入っていた。

去年の私は、一度帰れたそのときに、こうなるような気がしてこの動画を撮っていたのだろう。

ざらりとした電子音ではあったけど、たしかにあの海の音だ。

海はこの時のままあそこにあるから、もう少し頑張ろう。ちょっとだけそう思えた。

こんなことを思うたびに思い出すBUMP OF CHICKENの「東京讃歌」という曲の一部。

はじめはとてもキツい言葉選びの曲だと思ったけれど、本当に帰れなくなってはじめて、そのキツい歌詞の奥の優しさに気づいた。

勝手に選ばれて 勝手に嫌われたこの街だけが

持ってるよ

帰れない君の いる場所を

育った街への 帰り方

あの街は、私の故郷で。
この街は、今の私の居場所だ。

故郷はひとつだけだ。大切に思わないわけがないし、帰れなくて悔しいのも当たり前だ。

でも、身ひとつしかない私がいる場所だって、たったのひとつ。

できることはまだある。それもわかっている。

もう少し、ここにいよう。 
帰れる日まで。

だから今は、今を楽しむこと。
和歌山に帰るつもりだった日は、京都の北の方でもバイクで行ってみようかな。 

それともまた植物園へ行ってみようか。

鞍馬寺の大天狗に会いに行こうか。 

どうしようかな。



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