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旧里の杜サポートセンター・被災者生活支援員として

どうも、ゆかりです^^
震災シリーズ第2弾。
宮城県岩沼市で約2年間、市の委託事業として展開された被災者生活支援員として活動した経験を簡易的に綴ります。
最初は復興庁職員で志願していたのですが、土木建築系しか採用がなく。
そのおかげ様でコミュニティソーシャルワーカーとして活動できることに。

【里の杜サポートセンター】

宮城県岩沼市
東日本大震災での復興のトップランナー、と呼ばれていた。
私の派遣先は岩沼市役所福祉課内の「里の杜サポートセンター」。
仮設住宅や集団移転先への訪問を中心に、地域住民と直接関わって、岩沼市各課や社会福祉協議会など関係機関と連絡調整を行うことが主たる業務内容だった。
また、毎日の訪問巡回や連絡会議に加えて、自分の担当としては市民グループ活動のサポートや全国のボランティアさんのコーディネートを担った。
既に開所当初から携わっていた先輩方のおかげさま、それから自らが神戸で震災を体験したということも加味して、就任当初から地域住民方の受け入れの姿勢は非常にあたたかく、働きやすい環境であった。
また社会福祉協議会とチームを組んでの訪問調査があり、社会福祉協議会という組織がどのようなものかも身をもって学ぶこともできた上に、お役所のみなさまや地域の出向職員の方々とも働くことができ、非常に貴重な経験もできた。

【津波の痕跡】

初日から、勤務後の夜に月に一度の区長会議があり、そこで迎え入れていただいた私は、縦揺れ地震と大津波のお話を交換。
区長さん方は地域のリーダーとして、避難を呼びかけながらも「津波なんて来ない、大丈夫だと思ってた。」と。
お話ししてくださった区長さんは実際に津波に飲み込まれて、大混乱の中で必死に命を守って行動したという体験を伝えてくださった。
その壮絶さに胸を握り潰されるような心持ちだったこと、今でもはっきり覚えている。
その区長さんに「帰国してすぐ、親元からまた遠く離れて。オレが親だったらさみしいな。」と言われたことも後々の自分の選択に大きく関わることにもなった。

赴任してほどない頃、JICA逆バージョンとして、海外からの協力者を受け入れたこともあり、イスラム系チュニジア人と共に岩沼市をぐるっと案内していただいた。
(その彼はとても個人的な事情ですぐに帰国して、そこにもびっくり!)
ほぼ平地であることと津波の到達地点が想像以上に広範囲であったこと。
居住不可地区が設定され、その一帯に植樹をするイベントにも参加した。
また、土地を有効活用するために、仲間達と羊牧場を作った。
東北大学の協力を得て、羊を2頭譲っていただき、世話に仕方を学び、柵や餌箱を作ったり、餌を譲っていただけるところを渉外して確保したり、実際に朝の勤務前に交代で羊当番をして羊の世話や掃除を行っていた。
被災者の心のケアにつながるように、ふれあい牧場になり、今では大きくて立派な牧場になっております。

【仮設住宅で暮らすということ】

毎日巡回訪問を実施する。
対象は市から支援対象者として設定されている、独居高齢者、障害者のいる世帯、市から見て(笑)問題があると見なされた人物がいる世帯に関しては、安否確認や細かい情報を拾うために頻繁に訪問。
また、地域リーダー的な方にも頻繁に会って、お互いに情報交換したり、勇気づけを行ったり、などの関わりをもった。
仮設住宅での長期に渡る生活の中でのさまざまは、実際に体験してみないと本当の苦労やストレスははかれないだろう、と想像に難くない。
子どもたちは明るく振る舞っていて、普段はその姿に励まされたり力をもらったりする。
しかし、まれに実際に心のうちをそっと漏らしてくれることもあり、こちらがうっかり泣いてしまいそうになることもあった。
余計にいじらしいし、子どもらしい子ども時代を失ってしまっていることに胸をいためた。

仮設住宅での生活で、元々素因のあったことが大きく浮き彫りになる、ということも。
例えば、ゴミ屋敷風、健康的とは言い難いアルコール摂取、就職できずに貧困に陥る世帯、障害者兄弟の破綻生活、家庭内暴力、乳幼児を抱える若い母親の孤独、世帯主の大病、独居高齢者などなど。
そこにグリーフが大きく加わる。
それぞれの人生が詰まっていて、そしてその一部を共有してくださった。

【集団移転地への転居】

まちづくり協議会で住民が主体的に集団移転先をデザインしていく、という試みの様子はテレビ放映やラジオ配信でも取り上げられていたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。
岩沼玉浦地域の皆さまは本当に素晴らしかった。
移転後の地域のお祭りも実行委員を立ち上げ、私たちも関わらせていただいたが、主体は住民の皆さまで。
このいのちの輝きは、なんたることか、といつも感動を覚えていた。

新しい自治会の立ち上げもサポートした。
住民同士だけで話し合うよりも、なんだかいつもそこにいる我々サポートセンタースタッフがその場にいることによって、話の内容ではなく、伝え方や発言のしやすさに好影響があったような印象がある。
繋がりの面で心配していた地域の自治会が無事発足できた時は、サポートセンタースタッフ一同安堵のため息をついた。

集団移転先では、地域外からの入居者も受け入れていた。
地域住民としては受け入れの姿勢はウェルカムだが、逆に新しく入ってこられた方々の戸惑いやややもすると拒否的な感情も見え隠れしていた。
私たちは集団移転先へ入居した方々に対しても訪問面談を行っていて、そこでも新たに浮き彫りになることはさまざまだった。
当然だ、人の暮らしに「何もなくスムーズです」なんてこと、通常時でもありえない
そこでも私たち支援員のあるべき姿を、出会う人出会う人によって考えさせていただける機会となった。
今はどうされているのかな、と時々玉浦西の住民の皆さんに思いを馳せる。

【対人支援について】

他の地域で活動している支援員とも勉強会や研修で分かち合いをすることもあった。
その中で、今でも私の対人支援の価値観にツブテを投じられたある支援員の言葉が、ある。
その方は支援員になる以前、会社員として勤めていたそうだ。
被災者支援の活動に対して使命感を抱き情熱に燃え、「あの人は通院しないと命に関わる。毎日説得に行くが応じない。どうすればいいか?」と熱弁しておられた。
私からすると、「はい?」だった。
説得?外からやってきた人がズカズカと本人の生活や価値観に土足で上がり込むのか?と多大なる衝撃を受けた。
本人だけではなく取り巻く環境や家族の思いなども関わる事例で。
私たちにできることなんて、何もない
支援員の方の思いを遂げるために、その方が通院するということもないのではないか、と私は思う。
賛否両論はあるかも知れないが、本人も命に関わることは承知しているだろうし、本人のお気もちを聴きその方が望んでいる隠れたニーズも勘案した上で、支援者は寄り添うのが良いのではないか、と私は考える。
その人の物語の主人公は、いつでもその人
どんなときでもいつでも大切にしていたい。
私たち支援者ができることは、その人がその人らしく生きることができるように自己決定を尊重し、必要な時だけエンパワメンメントし、あとはそっと寄り添い見守り続けること、なのではないかな。

【さまざまな地域イベントやサポートセンターでの企画】

岩沼市民の一員としても、ゴミ拾い活動をはじめマラソン、植樹、お祭りなどの地域イベントに住民の方々とともに参加させていただき、生活もともにしてきた。
日常的に住民の方から招待されることもあり、休日や勤務時間外にご自宅に訪問することも多かった。
農家さんから農産物を分けていただくことも多く、無農薬でしかも朝採れたての新鮮なお野菜や、新米の驚くほどの美味しさは今でも忘れられない。

業務の一環として、料理教室などのイベントを企画。
そのイベントでは、必ず住民の方に主導を取っていただくように働きかけ、企画準備や会場確保などは行うものの進行は住民の方にお任せしていた。
また、地域のサロン活動にも顔を出し、一緒に過ごすことによって、信頼関係構築というよりも住民目線で、しかも専門性をもったスタッフとして関われたこと。
コミュニティソーシャルワークをさせていただいたことに、感謝の思いが尽きない。

また、岩沼在住時に、水害や大雪で被害にあった近隣県へ社会福祉協議会のメンバーとともに災害ボランティア活動も積極的に参加させていただいた。
水害時の泥かきには苦い思い出が蘇ったが、自分のもつ力を最大限活用でき、違った心で取り組めた。
大雪の地域は、雪かきではなく、「雪掘り」と呼ばれ、主に独居高齢者の方のお住まいの雪掘りを行った。
普段の生活では知ることないことを、たくさん経験させていただき、同時に人のあたたかさや生きるたくましさもたくさん学ばせていただいた。

余談ではあるが。
私は今でも、毎朝晩ヨガの習慣がある。
実はこのヨガ、岩沼に来させていただいたことをきっかけに始まった。
住民の方々とともに心身の健康のため、ヨガに関わることが一気に増え、習慣化したのだ。

【神戸に戻ることを決めた】

JICA活動帰国後は、東日本大震災の復興に関わる、と決めて。
実際に就任した時にも決めていることがあった。
支援員の仕事は長く続けないように、精一杯取り組もう、と。
支援員がずっとずっと存在するようでは、本当の復興、と結びつかないからだ。
本当の復興、の定義が私には難しい、ということはここでは抜きにして。
私の中では、「仮設住宅に住んでいる方全員の行き先が決まるまで」と決めていた。
途中で、所属していた公益社団法人の組織が”地域での障害者”をテーマに他の取り組みを始めて、実は興味分野なので心が揺れたが、結局は初志貫徹。
皆さんの移転先が決まった年の年度末に帰郷することに決めた。
それは、岩沼で体験を通して学んだ「地域のつながり、地域で暮らし生きるということ」について考えを深めたから。
この学んだことを、私を育んでくれた神戸に還元できないか、と考えた。
就任の時にある区長さんから言われた言葉も胸に残っていて、当時は「神戸で生きる」をテーマとして方針を決めたのだ。

岩沼で生活していた間に出会った、全ての方々にこの場をお借りして改めて深謝したい。
本当に本当に私を迎え入れてくださり、育ててくださり、ありがとうございました。

【まとめ】

岩沼から神戸に戻り、自身も取り巻く環境も大きく変わった。
私が岩沼で生活していた時に所属していたサポートセンターがこの3月で閉所することとなった、という知らせを、カウンセリング講座受講中に受け取った。
言葉に言い表せない感慨に包まれた。
今でもその感覚は胸をぼんやりと漂っている。
また、違う気持ちで宮城を訪れたいものだ。

この世に出づる全ての人に、それぞれの人生があって。
全ての人にストーリーがあって、そのストーリーの主人公はその人でしかない
しかし、人は関わりの中を生きていく。
時には予想外の出来事や、他者を優先するあまり、自分のストーリーを生きられないことも、ある。
だがそんな時も、ふと思いを馳せてみて欲しい。
あなたはあなたの物語の主人公です

末筆ですが、東日本大震災で被害に遭われた全ての方に哀悼の念を、そして関係者のみなさまに祈りを改めて捧げます。
そして、今日も明日も、今を生かされていることに感謝したいと思います。


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